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黄老思想(こうろうしそう)は、古代中国の戦国時代末期から漢代初期に流行した、道家または法家・雑家の政治思想である。黄老の学、黄老の術、黄老道ともいう。黄帝と老子に仮託されることからこのように称される。
「無為の治」を掲げ、君主が政治に過度に干渉することを避け、天道に背く勝手な行動をとることを禁じ、最小限の法に統治を委ねるべきとする思想である。
『黄帝四経』と『老子』をその思想的根拠・経典とする。『史記』によれば、斉の稷下の学士である慎到・田駢・接予・環淵がその代表的人物である。また、『史記』老子韓非子列伝では、申不害や韓非子を「黄老に本づき刑名をたっとぶ」として、法家の刑名思想(形名思想ともいう、君主が臣下を統御する思想)を黄老に由来するとしている。そのことから黄老刑名の学とも呼ばれる。そのほか、宋銒・尹文・范蠡[1]、『管子』[1]『淮南子』[1]『鶡冠子』[1]なども黄老思想の関連人物・思想書とみなされる。
黄老思想は前漢前期に流行し、曹参・汲黯・田叔らによって伝えられた[2]。とりわけ、文帝の妻の竇太后が黄老の書を好み、子の景帝・孫の武帝の治世初期まで黄老思想にもとづく政治が敷かれた[3][4]。その間の時代は「文景の治」と呼ばれる黄金時代と重なる。
しかしその後、竇太后の死を契機として黄老思想の支持勢力は衰退し、公孫弘に代表される儒者にとって代わられた[3]。ただし、『老子』はその後も重んじられ続け、劉向や馬融による注釈や『易』との接近を経て、後漢末期から三国時代には初期道教と玄学の経典になった[5]。
『黄帝四経』は早期に散逸していたが、1973年、馬王堆漢墓から出土した馬王堆帛書に、『黄帝四経』にあたると推定される四篇の文章『経法』『十六経』『称』『道原』、および『老子』の異本が記された帛書が発見された。そのような経緯から、黄老思想の詳細な研究は20世紀末から始まった。
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