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鹿児島市生まれ。鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校、鹿児島大学水産学部海洋社会学科卒業。
大学1年時から、授業そっちのけで世界各地でバックパッカーの旅をはじめた。大学2年時には、旅をしていた韓国で大規模な民主化デモが始まり、たまたまそこに滞在していた鬼塚も、催涙弾と石礫、火炎瓶の飛び交うデモに巻き込まれ、九死に一生を得た。「自分たちの手で自分たちの社会を変えてやろうという熱い意気込みを感じた」と言う。
大学在学中、2年間、イギリスへ語学留学。世界中から集まる同年代の若者たちに触れ、刺激を受けた。大学卒業後も就職はせず、ふたたび世界放浪の旅に出かけた。旅行資金のなかった鬼塚は、東京の会社を受けることで資金を作った。というのも、時はバブル絶頂期。会社を受けにいくだけで、飛行機代、宿泊代、食事代という名目で、一社の面接で10万円支給される時代だった。鹿児島から東京まで2日かけてヒッチハイクで行き、友人宅に宿泊した。会社30社のべ50回受け、300万円の旅行資金を作り、ふたたび、世界放浪の旅の軍資金とした。生きる場所を探しに行くつもりで、日本に帰ってくるつもりはなかった。旅をしたのは、アジア・オセアニア、中近東、アフリカ、ヨーロッパなど40か国。世界放浪の旅をしながら、1991年より南日本新聞で旅行記を連載し、紀行作家としてデビュー。インドを旅行していたときには、悟りを開くために、ブッダが悟りを開いたと言われるブッダガヤで修行を始めたが、そこで、同じく瞑想中をしていた麻原彰晃と遭遇した。
旅の間、オーストラリア、イスラエルで働いたが、それでも4年ほどで資金を使い果たした。ヨーロッパに入ると、物価があまりにも高く、すぐに資金がなくなっていった。飛行機チケットを買えなくなり、ワルシャワからモスクワを経由してシベリア鉄道に乗ってハバロフスクまで行き、そこからアエロフロートで新潟に帰った。帰国時、所持金はほとんどなかった。
帰国後、オーストラリア滞在中に働いていた日本人向け新聞社に再就職が決まった。ビザを待ちわびるも、なかなか降りず進路変更をした。
1997年、海外作家の版権エージェントである英系資本のイングリッシュエージェンシー・ジャパンに入社。数々の海外作家の日本語翻訳権を日本の出版社に売りまくった。
2001年、出版するコンテンツは自分で作りたいからと、日本人作家の著作権エージェント会社であるアップルシード・エージェンシーを設立。多くの作家を発掘し、和田裕美『世界NO.2セールスウーマンの売れる営業に変わる本』、大橋禅太郎『すごい会議』、徳田和嘉子『東大生が教える超暗記術』、奥野宣之『情報は1冊のノートにまとめなさい』、赤坂真理『モテたい理由』、小手鞠るい『エンキョリレンアイ』などをプロデュース、ベストセラー作家を育てる。
また、自分でも小説やノンフィクションを書くようになり、9作の小説を書き、8作が映画化されている。
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