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春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから
秦王政16年(紀元前231年)、9月、秦は兵を発し、韓の南陽の地を受け、騰を仮の南陽守とした[1]。
秦王政17年(紀元前230年)、騰率いる秦軍は南下し、新鄭を急襲した。韓王安は捕虜となり、韓は滅亡した。韓の国土は秦の潁川郡となった[2]。
韓を滅ぼしたことにより、秦の統一への道が開かれた。韓は脆弱な国であったが、兵器は精良であり、「天下之強弓勁弩皆從韓出(優れた弓と弩は全て韓から生まれた)」と評されるほどであった[3]。よって韓を併合することで秦の軍事力はさらに強化された。韓の地理的な位置も重要で、魏、趙、楚の間に位置しており、これが秦の東進を防ぐ前線となっていた。韓が占める伊闕、成皋などの地域は天険であり、攻めるに難しく、韓が存在する限り他の国々は安定していたため、韓を迅速に滅ぼすことで秦は統一の進展を大いに加速させた[4]。
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