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仏教用語 ウィキペディアから
四諦(したい、梵: catur-ārya-satya[1], チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい、巴: cattāri ariya-saccāni[2], チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教が説く4種の基本的な真理[3][4]。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと[3][4]。四真諦[5]や苦集滅道[6]。
仏教用語 四諦(したい) | |
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パーリ語 |
चत्तारि अरियसच्चानि (cattāri ariyasaccāni) |
チベット語 |
འཕགས་པའི་བདེན་པ་བཞི་ (Wylie: 'phags pa'i bden pa bzhi THL: pakpé denpa shyi) |
ビルマ語 |
သစ္စာလေးပါး (IPA: [θɪʔsà lé bá]) |
中国語 |
四聖諦(T) / 四圣谛(S) (拼音: sìshèngdì) |
日本語 |
四諦 (ローマ字: shitai) |
朝鮮語 |
사성제(四聖諦) (sa-seong-je) |
英語 | Four Noble Truths |
モンゴル語 |
Хутагт дөрвөн үнэн (Khutagt durvun unen) |
シンハラ語 | චතුරාර්ය සත්ය |
タイ語 |
อริยสัจสี่ (ariyasat sii) |
ベトナム語 | Tứ Diệu Đế (四妙諦) |
苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[5]。
四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる[5]。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた[7]。
伝統仏教では、四諦は釈迦が最初の説法で説いたとされている(初転法輪)[5][7]。ただし近現代の仏教研究によれば、四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになったことが判明している(仏教#釈迦の修行法)。
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ[6])とは、迷いの生存が苦であるという真理[1]。苦しみの真理[8]。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。
集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、巴: samudaya sacca, サムダヤ・サッチャ[6]または苦集諦(くじゅうたい)とは、欲望の尽きないことが苦を生起させているという真理[1]、つまり「苦には原因がある」という真理。苦しみの生起の真理[8]。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じゅう(じふ))とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。
集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい, トリシュナー)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。
滅諦(めったい、梵: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ[6]、苦滅諦, くめつたい)とは、欲望のなくなった状態が苦滅の理想の境地であるという真理[1]。苦しみの消滅の真理[8]。修行者の理想のあり方[1]。なお、ニローダはせき止める、制止する、の意味[1]。
道諦(どうたい、梵: mārga satya, マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ[6]、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、苦滅にいたるためには[1]、七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程である八正道によらなければならないという真理[1]。苦しみの消滅に至る道の真理[8]。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道である。
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顕揚聖教論巻七では、四諦の内容を分類して八諦とする[5]。また、小乗の四諦観は不完全であるとするのに対して大乗の四諦観は完全であるとする[5]。小乗の四諦観を有作の四諦と貶称し、大乗の四諦観を無作の四諦と称する[5]。この両方を合わせて八諦ともいう[5]。
法相宗では、滅諦に三滅諦を、道諦に三道諦を立てる[5]。天台宗では四種の四諦(生滅の四諦、無生の四諦、無量の四諦、無作の四諦)を立て、これらを蔵・通・別・円の四教に配当する[5]。
パーリ仏典では釈迦は初転法輪において、四諦それぞれを以下の三転から説き(三転十二行相, dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ)[9][10]、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとする[11][12]。
Yato ca kho me bhikkhave, imesu catusu ariyasaccesu evaṃ tiparivaṭṭaṃ dvādasākāraṃ yathābhūtaṃ ñāṇadassanaṃ suvisuddhaṃ ahosi. Athāhaṃ bhikkhave, sadevake loke samārake sabuhmake sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya anuttaraṃ sammāsambodhiṃ abhisambudadho paccaññāsiṃ
比丘たちよ、私はこれら四諦の三段階(tiparivaṭṭaṃ)十二側面(dvādasākāraṃ)の、如実な知見(ñāṇadassanaṃ)を得て清浄となったので、それゆえ私は、天部、悪魔、沙門婆羅門の人々、天人らが達したことがない、無上正等覚(sammāsambodhiṃ)に至ったと宣言したのである。
パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、止観(瞑想)修行に精進し続けることで得られる六神通の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている[13][要検証]。
仏教学者の三枝充悳は、スッタニパータをはじめとする詩句を表現するパーリ語には異同が見られるとし、調査によって、①苦集滅道のみで四諦の語がない→②苦集滅道も四諦の語もある→③四諦の語のみあり、の順に発展して、四諦の語が広く知られてからは、とくに苦集滅道を説く必要性が消えた[14]と推測している。
大乗の『大般涅槃経』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
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