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関東大震災中国人虐殺事件(かんとうだいしんさい ちゅうごくじん ぎゃくさつじけん)とは、1923年9月1日に発生した関東大震災による混乱の中で発生した中国人の虐殺事件である。日本の軍隊や警察、民衆等により、主に出稼などのために中国から日本に来ていた中国人労働者らが東京府南葛飾郡大島町で無差別に虐殺された大島事件[1]、亀戸周辺で留学生王希天が軍に殺害されたとされる事件などが知られている[2]。それら中国人を理由とした事件以外にも、朝鮮人と誤認されて殺傷された事件もある[3]。惨殺された人の数は判明しただけで少なくとも600人以上とされている[4]。
帰国した中国人生存者から、大島町における集団虐殺事件、習志野での拘禁、中国人の権利拡大の活動で知られていた留学生王希天が行方不明事件になっていることが伝えられて発覚した[5]。これにより国際問題となり、1923年12月には中国政府調査団(団長:王正廷)が来日した。日本政府は誤殺以外を否定したものの[要出典]、損害賠償に関しては交渉を行った[6]。
1923年11月に日本の外務省条約局が中国人虐殺問題ついての国家責任を調査した文書には「暴動の行為が外国人に対し行われた場合は、官憲に身体財産の安全を確保する義務があると推定され、国家に賠償責任がある」との記述が残っている。また中国からの調査団派遣などを受けた日本政府が、1924年5月に「当時混乱の際、在留支那人の中にも不慮の災害を被りたる者少なからざるべしと思考する」「支那人傷害事件慰藉(いしゃ)金20万円責任支出の決定」をした記録[注釈 1]、またその後に交渉が中断して賠償も行われなかった記録も残っている[8]。しかしこの問題について、日本政府は公には認めてきていない[8][7]。
虐殺されたのは主に温州出身の労働者達[9]。当時上海港では温州同郷会が船が着く度に帰国者を出迎え、四明公所や温州会館で寛がせた後、船を用意して故郷の温州へ無料送還していた[10]。
1923年10月12日、山城丸が上海港に入港。この日、山城丸から多数の怪我人が降りてきたため港は大騒ぎとなる。重症者は四明公所に運び込まれ手当を受けた。彼らの口から、主として大島町での労働者集団惨殺の模様、更には王希天の習志野での幽禁とその後の行方不明について語られた[10]。
この船には王希天の親友で同じく留学生だった王兆澄が労働者に変装して乗っていた。船中で労働者達の受難状況を調査していた王兆澄は、上陸後すぐに新聞社に連絡して、その日の内に記者会見を開催。上海の新聞が一斉に報道した事から事件が発覚した[11]。
当時の中国国内では、隣国日本で発生した大震災に対しカンパを募って義捐金を送っていたが、突然の「いわれなき日本の殺人行為」により世論が大きく変わったという[12]。
関東大震災下の中国人虐殺を主題として最初に取り上げた研究は、松岡文平の「関東大震災と在日中国人」及び「もう一つの虐殺事件—関東大震災と在日中国人」(ともに1972年)で、当時の報道などを利用して丹念に追究を行い、大島町における集団殺害と王希天事件とを見出した[13]。松岡はさらに中国側の史料も利用して「関東大震災下の中国人虐殺事件について」(1974年)を発表している[14]。
前後して『歴史評論』1973年10月号に掲載された小川博司の「関東大震災と中国人労働者虐殺事件」は、主に中国側の史料に依拠して分析を行った[14]。小川によれば、中国側の認識する虐殺の背景には、対華21カ条要求に対する経済絶交運動などの抵抗へのうらみ、中国人労働者の移入制限に対する抵抗への暴力的な見せしめがあげられているという[14]。
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