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一品。天武天皇の四男 ウィキペディアから
持統天皇7年(693年)同母弟の弓削皇子とともに浄広弐(三品に相当)に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品となる。
その後文武朝から元明朝にかけて、慶雲元年(704年)と和銅7年(714年)にそれぞれ封戸200戸を与えられている。天武天皇の皇子の中でも天智天皇を祖父に持つ血筋の良さもあり、穂積親王の次代の知太政官事となる可能性もあったが、穂積親王よりわずかに1か月早い和銅8年(715年)6月4日薨去。享年は不明だが、皇子である智努王(文室浄三)らの生年から、40歳代中盤から50歳代前半と推定される。
また、キトラ古墳の被葬者とする説も存在している。
『六国史』による。
長皇子の子のうち智努王(文室浄三)・大市王(文室大市)は舎人親王薨去後、天平勝宝4年(752年)に文室真人姓を下賜され臣籍降下した(栗栖王の系統は曾孫の助雄がはじめて同姓の下賜を受けた)。その後、浄三・大市は他の天武系皇族が相次いで政争により粛清された中生き延び、実現はしなかったが、神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御時には、吉備真備によって皇嗣候補に推された。
『万葉集』に5首歌が残っている歌人でもある。小倉百人一首歌人の文屋康秀とその子の文屋朝康は、それぞれ長皇子からは5代・6代目の子孫にあたる。
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