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平安時代中期の貴族・歌人 ウィキペディアから
藤原 忠君(ふじわら の ただきみ)は、平安時代中期の貴族・歌人。名は忠尹とも記される[1]。藤原北家、右大臣・藤原師輔の五男。官位は正四位下・右兵衛督。冷泉天皇・円融天皇の外叔父。
藤原師輔の五男として生まれるが、祖父の藤原忠平の養子となる[2]。
右衛門佐を経て、天徳2年(958年)村上天皇の五位蔵人に任ぜられる。天徳4年(960年)正月には兄弟の藤原伊尹・兼通・兼家・遠量と共に叙位を受け、正五位下に叙せられる。前代未聞の兄弟5人の叙位という栄誉に対して、父・師輔は「若是栄華之極哉」と述べたという[3]。同年10月右兵衛督。応和2年(962年)従四位下に叙されて蔵人を去る。
康保4年(967年)同母姉・安子所生の冷泉天皇が即位するが、翌安和元年(968年)卒去[2]。最終官位は右兵衛督正四位下。3人の同母兄(伊尹・兼通・兼家)が円融朝で外戚として摂関を歴任した一方、忠君は早逝したため公卿昇進を果たせなかった。
歌人であり、天徳元年(957年)清涼殿詩合、天徳3年(959年)清涼殿女房歌合で方人を務め、応和2年(962年)清涼殿前栽合にも出詠した。勅撰歌人として、和歌作品が『拾遺和歌集』に2首入集している[4]。
『尊卑分脈』による。
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