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平安時代後期の貴族・神官。熱田神宮の大宮司。熱田大宮司家。従四位下。子に藤原範綱(直基、大学助)-憲仲(安芸守)、千秋尼(上西門院女房)、大進局(待賢門院女房) ウィキペディアから
藤原 季範(ふじわら の すえのり)は、平安時代後期の貴族・神官。熱田神宮の大宮司。藤原南家貞嗣流、藤原季兼の子。位階は従四位下。額田冠者を名乗る。
父が尾張国の目代として赴任していた尾張国に生まれる。出生時、父・季兼は当時としては高齢の47歳であり、季範が12歳のとき死去した[1]。
季範の母の実家である尾張氏は、国司と対立していたが、国司の代官である藤原氏と尾張氏の婚姻の結果、尾張氏と国衙の関係は和解した[2]。尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る[3][4]。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫である千秋家の世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。
保延3年(1137年)8月、夢想により五男・範雅に大宮司職を譲る[5]が、季範が死去した久寿2年(1155年)に季範の長男・範忠が大宮司職に就任する[5]。
季範自身は主に都で生活することが多く[6]、従四位下の位階も受けている。従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多かった。
また子女を経由した人脈も幅広く、待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた他、娘の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。さらに、養女となった孫娘(実父は範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている[7]。また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経・頼嗣の他、後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。
※以降の系図については下記の参考文献を参照のこと。電子版はこちらから。
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