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荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に設置された。
紀元前105年(元封5年)、漢の武帝が全国を13州に分割した際、荊州が設置された。前漢の荊州は南陽郡・南郡・江夏郡・桂陽郡・零陵郡・武陵郡・長沙国の7郡国を管轄した[1]。
後漢のとき、荊州は南陽郡・南郡・江夏郡・桂陽郡・零陵郡・武陵郡・長沙郡の7郡を管轄した[2]。
後漢末には劉表によって統治された。劉表は各地から避難してきた学者を厚遇したため、「荊州学」と呼ばれる学派が形成された[3]。荊州学の主な人物として宋忠がいる[3]。
208年(建安13年)の赤壁の戦い後、荊州は北部の南陽郡及び南郡は曹操、中南部は劉備及び孫権により領有された。曹操は南郡・南陽郡を分割して襄陽郡・南郷郡を設置した。南郡・零陵・武陵は劉備に、江夏・桂陽・長沙は孫権に、南陽・襄陽・南郷の各郡は曹操により領有され、それぞれが3郡を支配したことより「荊襄九郡」と称されることとなった。210年(建安15年)、孫権が北部の長沙郡を分割して漢昌郡とした。
219年(建安24年)、荊州牧であった劉備の守将の関羽が曹操・孫権により滅ぼされると荊州は曹操と孫権により二分割された。三国時代、魏の荊州は南陽郡・江夏郡・襄陽郡・南郷郡・新城郡・上庸郡・魏興郡の7郡を管轄し、呉の荊州は南郡・江夏郡・長沙郡・湘東郡・桂陽郡・臨賀郡・零陵郡・衡陽郡・武陵郡・建平郡・宜都郡の11郡を管轄した。221年(黄初2年)、孫権は公安より鄂に遷都して武昌と改名し、武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羡の6県にて武昌郡とした。229年(黄龍元年)、漢昌郡を廃止した。
西晋が成立すると、荊州は江陵に州治が置かれ、下部に22郡169県を管轄した。
南北朝時代になると、州数は増加傾向があったが、その管轄区域は縮小している。南朝宋は荊州の州治を襄陽としたが、南朝斉により江陵に移された。北魏により穣県に荊州が置かれた。
587年(開皇7年)、隋が後梁を併呑すると、荊州が置かれ、3郡7県を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い南郡と改称され、下部に10県を管轄した[4]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
621年(武徳4年)、唐により南郡は荊州と改められ、江陵・公安・枝江・長林・安興・石首・松滋の7県を管轄した。742年(天宝元年)、荊州は江陵郡と改称された。758年(乾元元年)、江陵郡は荊州の称にもどされた。760年(上元元年)、南都が置かれ、荊州は江陵府に昇格した[5]。
1130年(建炎4年)、北宋により江陵府は荊南府と改称された。1135年(紹興5年)、荊南府は江陵府の称にもどされた。江陵府は荊湖北路に属し、江陵・公安・石首・建寧・監利・松滋・枝江・潜江の8県を管轄した[6]。
1276年(至元13年)、元により江陵府は荊南府路と改められた。1301年(大徳5年)、荊南府路は江陵路と改称された。1329年(天暦2年)、江陵路は中興路と改称された。中興路は河南江北等処行中書省に属し、江陵・公安・石首・監利・松滋・枝江・潜江の7県を管轄した[7]。1364年、朱元璋により中興路は荊州府と改められた。
明のとき、荊州府は湖広省に属し、直属の江陵・公安・石首・監利・松滋・枝江の6県と夷陵州に属する長陽・宜都・遠安の3県と帰州に属する興山・巴東の2県、合わせて2州11県を管轄した[8]。
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