聖パトリック大聖堂 (ダブリン)
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ダブリンの聖パトリック大聖堂(英語: Saint Patrick's Cathedral, アイルランド語: Árd Eaglais Naomh Pádraig)、正式には聖パトリックの国立大聖堂およびカレッジチャーチ (The National Cathedral and Collegiate Church of Saint Patrick, Dublin)は、1191年に創設された大聖堂。現在はアイルランド聖公会の管轄でありダブリンに2つある聖公会の大聖堂のうち大きいほうであり (もうひとつはクライストチャーチ大聖堂) 、アイルランド島全体でも最大の教会である。
聖パトリック大聖堂 | |
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聖パトリックの国立大聖堂およびカレッジチャーチ | |
北緯53度20分22秒 西経6度16分17秒 | |
国 | アイルランド |
教派 | 聖公会 |
ウェブサイト | www.stpatrickscathedral.ie |
歴史 | |
守護聖人 | パトリキウス |
建築物 | |
様式 | ゴシック建築 |
完成 | 1191年 |
管轄 | |
主教区 | ダブリンおよびグレンダーロッホ連合主教区 |
教会管区 | ダブリン管区 |
聖職者 | |
主任司祭 | ロバート・B・マッカーシー |
先唱者 | R・C・リード |
関係平信徒 | |
オルガニスト兼 音楽監督 | ピーター・バーレイ |
オルガニスト | デビッド・リー |
珍しい例ではあるが、大聖堂であるにもかかわらず主教座がこの教会には存在せず、ダブリン大主教の主教座はクライストチャーチ大聖堂にある。そのため1870年からは聖パトリック大聖堂をアイルランド島全体のために国立大聖堂とし、聖堂参事会 (chapter) の委員はアイルランド国教会の12の主教区全体から選ばれている。また、2007年からは他教派の聖職者も参事会に加わった。教会としては1219年から置かれている首席司祭 (Dean) によって統率されており、最も有名な首席司祭はジョナサン・スウィフトである[1]。
1192年、イングランド人 (アングロ・ノルマン) としては初めてダブリン大主教になったジョン・カミン(John Comyn)は4つあったケルト系教区教会のうちひとつの地位をカレッジスクール (collegiate church。聖堂参事会によって管理される教会) に格上げした。その教会は聖パトリックに捧げられており、同じ名前を持つ聖泉(holy well)[2]のそばに位置し、ポドル川 (en) の2つの支流にはさまれた土地にあった。これにより教会は聖職者とともに学問と崇拝双方にいそしむこととなった。新たなカレッジスクールは従来のダブリン市の境界を超え、この動きによって新しい2つ (うちひとつは大司教の世俗管轄権下であった) の都市領域が生まれた。1192年3月17日には教会は捧げる対象を「神、我らが聖なるマリア様そして聖パトリック (God, our Blessed Lady Mary and St. Patrick)」とした[3]。
1191年もしくは1192年に発行され、13人のカノンによる聖堂参事会および3つの特別高僧(尚書(Chancellor)、先唱者(Precentor)、会計(Treasurer)の3つ)を認めたカミンの設立認可状は時の教皇ケレスティヌス3世の教皇教書によってその年の内に承認された。13人の受禄聖職者は大司教の土地から与えられた教会を付与されていた。
時が下るにつれて、建造物全体は大聖堂に近いものとなり、大司教座である聖墓宮殿(the Palace of the St. Sepulchre)を含み、法的管轄権は大聖堂一帯の首席司祭により監督される特権と、それと隣接するがより大きな大司教の保持している管轄権とに分割された。
教会がさらに大聖堂に格上げされた正確な時期はっきりしていないのではあるが、すでに大聖堂が存在する都市で起こったこの奇異な動きはおそらく1192年以降に起こっており、カミンの後任の大司教であるロンドンのヘンリは1212年にクライストチャーチと聖パトリック双方の聖堂参事会によって選ばれている。この任命はインノケンティウス3世によって承認された。これらの問題については後述する#2つの大聖堂問題を参照。1218年から1220年の間、ヘンリーはさらなる設立認可状を聖パトリック大聖堂とその聖堂参事会に与え、そのひとつである1220年のものは、大聖堂を率いるために首席司祭のオフィスを設置するというものであり[4]、選出の権限は聖堂参事会のカノンのみに割り当てられた。
アイルランド最大の教会として知られている現在の教会のルーツとなる建築物は1191年から1270年の間に建築されたが、それよりもさらに古い建築物の遺構は洗礼堂を除いて今ではほとんど残っていない。多くの建設はロンドンのヘンリの前言によって前もって監督された。彼はイングランド王の友人であり、そしてマグナ・カルタには連署人として名を連ね、さらにダブリンの市壁やダブリン城の建設にも携わっていた。
1225年のヘンリー3世の命令から改築のための4年間、島を越えての寄付金が認められ、その初期イングランドゴシック様式の建設は少なくとも1254年の再献呈まで続いていた。1270年ごろにはレディーチャペルが加えられた[5]。
1300年、ダブリン大司教フェリングスは2つの大聖堂を統合するための協定(Pacis Compostio)を取り決めた。これは双方とも司教座聖堂として認められている2つの大聖堂が分有する形となっていた権限を順応させるための対策であった[6](詳しくは#2つの大聖堂問題を参照)
1300年代半ばから500年間、建物の北側翼廊は聖ニコラス外部の教区教会として使われていた(言い換えると、聖ニコラス小教区の一部は本来の都市から外れていた)。火災の後、塔(マイノットの塔 Minot's Tower)と西身廊は1362年から1370年の間に再建された。
非常に早い時期からこの教会には浸水問題が付きまとっており、いくつかの洪水、中でも18世紀後半には周囲に流れるポドル川支流によって引き起こされたものが特筆される。20世紀にはいっても地下水面が床下7.5フィート(2メートル強)以内にあり[7]、この大聖堂においては地下聖堂や地下室は確実に存在しなかったであろうことを物語っている[8]。
イングランドの宗教改革(改革は1536年から1564年まで紆余曲折あったが、聖パトリックは1537年からその影響を受けていた)の後、聖パトリックは聖公会であるアイルランド国教会の大聖堂となったが、ペイル周辺の人々のほとんどはローマ・カトリックのままであった。徴発の間、大聖堂に収められているいくつかの像はトマス・クロムウェルが率いていた兵士によって傷つけられ、その後も十分な管理がなされなかった状況は1544年の身廊の倒壊につながった。
エドワード6世の治世中、聖パトリック大聖堂は公式に抑圧され、建築物は教区教会の地位に格下げされた。1547年4月25日に200マルク英貨の扶助料が首席司祭であるエドワード・バスネット (Sir Edward Basnet) に支払われ、続いて数ヵ月後には60マルクの扶助料が尚書のアリエン (Alien) と先唱者のハンフリー (Humphrey) に、さらに40マルクが副主教のパワー (Power) に支払われた。銀、宝石や装飾品はクライストチャーチの首席司祭や聖堂参事会に移譲された。
王は建物の一部を裁判所として使うように指定し、さらにカテドラルグラマースクール (the Cathedral Grammar School) は当時の教区牧師の邸宅に設立され、首席司祭の邸宅は大主教に与えられ、大主教邸宅のアイルランド総督への移譲が続いた。1549年には壁を塗りなおし、そこに聖書の一節を刻むよう、さらに命じられた。
1555年、フェリペ2世とメアリー1世の宣言書により大聖堂の特権を回復し[9] さらに復旧に着手した。1558年4月27日付で発せられたメアリー1世の治世後期の公文書は聖パトリックの新たな首席司祭であるトマス・レヴェロスおよび聖堂参事会へ、大聖堂に属するおよびクライストチャーチの首席司祭と聖堂参事会が保有していた「道具、家財、楽器、等々」の返却もしくは受領という内容で構成されていた
1560年、ダブリン初の公共時計のうちひとつは「聖パトリックの尖塔」に立てられた。
1600年代の初めごろにはレディーチャペルはすでに荒れ果てていたといわれ、クワイヤ西端に位置していたアーチは木摺と漆喰の仕切り壁によって切り離されてしまった。日常的な大量の訪問客もおり、大量の客に対応するためにギャラリーの一団が加えられた。
オリヴァー・クロムウェルがそのアイルランド侵略で滞在している間、イングランド共和国の護国卿は馬を大聖堂の身廊に入れ馬小屋代わりにしていた。これはクロムウェルの聖公会に対する軽蔑のデモンストレーションという狙いがあり、彼は聖公会に対してローマカトリックと政治的には国王派 (Cavalier) を連想していた。
1660年の王政復古の後、建築物の修復は始められた。1666年、大聖堂の聖堂参事会はフランス語を話すユグノーらのためにレディーチャペルを提供した。このユグノーたちはアイルランドに逃れてきた一団であり、後にはいくらかの修理と支度の仕事をして、それらは聖パトリックの教会フランス人 (L'Eglise Française de St. Patrick) として知られている。貸し出しは1665年12月23日に調印され、それからユグノーが完全に都市の人々に埋もれそのサービスが終わる1816年にまでしばしば再開された。
1668年には崩壊の危険があった屋根は下ろされ、新たな屋根は1671年に完成した。控え壁が立てられ、西の窓は垂直式の窓に取り替えられた。その後1680年にはクワイヤが作り直された。
1688年から1690年のウィリアマイト戦争の間、ジェームズ2世とそれに従うカトリック教徒たちは短い間ではあるが聖パトリック大聖堂をおよそ150年ぶりに再び得ることとなり、ジェームズはしばらくの間そこで執り行われるミサにジャコバイトの支持者たちとともに参加した。しかし、1690年にジェームズがボイン川の戦いでの敗北の後ダブリンを去り、プロテスタントであるウィリアマイトがこの戦争に勝利したため、大聖堂は再び聖公会のものとなった。
長い歴史を通して、大聖堂はアイルランド人の生き方に多くを寄与してきたが、その重要な側面のひとつとしては作家であり風刺家であったジョナサン・スウィフトに関係がある。ガリバー旅行記の作者である彼は、1713年から1745年まで大聖堂の首席司祭であった。彼の有名な説教や「アイルランド地方」(たとえばドレイピア書簡) に関するものは彼が首席司祭として滞在していた間に書かれたものである[10]。
彼の墓と碑銘は彼の「友人」であったステラ (エスター・ジョンソン) のものとともに大聖堂で見ることができる。スウィフトは建築物 (その礼拝や音楽は今では社会福祉と呼ばれるものであるかもしれない) に対して大いに関心があり、聖パトリック病院や貧しい女性のために救貧院に出資した。
1432年に設立されたクワイヤ学校は、1742年にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの『メサイア』の最初期の公演に参加する多くのメンバーを供給した。
1769年には大聖堂尖塔が加えられ、これは今日に至るまでダブリンの陸標となっている。1792年、礼拝は南壁、垂直からずれた2箇所の最下部と屋根の一部がひどい状況であったため一時的に差し控えられた。
1783年から1871年まで、大聖堂は聖パトリック騎士団のチャペルとして用いられており、メンバーは聖パトリックの騎士 (Knights of St. Patrick) であった。1871年のアイルランド国教の廃止に伴い、任命式はダブリン城のセントパトリックスホール(en)に移された。移動前の騎士紋章旗は今日でもまだ内陣聖歌隊席の上を覆っている。
1805年までに北の翼廊は廃墟と化しており、南側の翼廊も悲惨な状態であったが、より切迫した工事は足場によって支えられていた身廊の屋根におこなわれたものであった。1846年、聖パトリック大聖堂の首席司祭はクライストチャーチの首席司祭と統合され、この状態は1872年まで続いた。
悲惨な経済状況によって制限されていたが、首席司祭パナケム(1843年から1864年まで首席司祭)の下では大規模な修理を始めることが計画された。レディーチャペルは修復され、床(当時数フィート高くなっていた)はもともとの高さまで下げられ、他の切迫した箇所に対しても少なくとも部分的な対処はなされた。
19世紀半ば、大聖堂の近くに埋もれていたケルト十字が見つかった。これは今も保存されており、もしかしたら初期の聖泉の場所を印したものではないかと考えられている。
ベンジャミン・ギネスの出資により1860年から65年にかけて大規模な修復が行われたが、これは大聖堂崩壊の危険が差し迫っているという危機感に感化されたものだった。また、このことは現在の建物や装飾品のほとんどはヴィクトリア朝からのものであるということでもある。中世の寄進礼拝堂は他の動きで取り除かれており、今日ではその仕事の痕跡はほとんど生き残っていない。
再建によって大聖堂が存続することは確実になったものの、再建の程度を記録しておくことを怠ったことで現在の建物のどこまでが本当に中世由来のものでどこまでがヴィクトリア朝のレプリカなのかがほとんどわからなくなっている。ギネス (彼はビール醸造家であった) は彼が「井戸のリベカ (Rebecca at the well)」のステンドグラスを寄贈し、「私は喉が渇いており、汝らは私に飲み物を与えた (I was thirsty and ye gave me drink)」という抱負を読んだ際にはやんわりとした批判を受けた。彼の像は南側のドアの外に置かれている。
大聖堂の大きな変革は1871年に起きた。アイルランド国教が廃止され国教会が国教ではなくなった後、新しく独立した教会総会はクライストチャーチを単一かつ明白なダブリン主教区の大聖堂とし、そして聖パトリックは国立大聖堂とすることでついに「2つの大聖堂」問題を解決した。
今日では大聖堂はいくつかの公の国家行事が行われる場所となっている。英国在郷軍人会連盟 (en:The Royal British Legion) が主催しアイルランド大統領が出席するアイルランドの英霊記念日 (en:Remembrance Day) 式典は毎年11月にここで執り行われている。また聖歌奉仕(9つの日課と聖歌 (en) の奉仕)は毎年12月24日を含めて12月に2回祝われ、これはダブリンの生活の華麗な目玉となっている。
ダグラス・ハイドとアースキン・ハミルトン・チルダース (en)、この2人のアイルランド大統領の葬儀はそれぞれ1949年と1974年にここで行われた。ハイド大統領の葬儀時、国教会信徒であったノエル・ブラウン(en)を除いた時のアイルランド政府と、野党のメンバーでは同じく国教会信徒であったチルダースを除いた人たちは、教会のロビーの外に待機していた。これは、この葬儀が行われた当時において教皇庁はカトリック教徒に対して非カトリック教会に足を踏み入れることを禁じていたためである。
チルダースは任期中に死亡したため、彼の国葬 (en) は大々的に行われた。参列者はベルギー国王ボードゥアン1世、アメリカ合衆国副大統領スピロ・アグニュー(ニクソン大統領の代理であった)、ルイス・マウントバッテン伯爵(エリザベス2世の代理)、イギリスの首相ハロルド・ウィルソンと前首相エドワード・ヒースらを含んでいた。
2006年には亡命者保護を求める18名のアフガン難民の一団によって、彼らがトラブルを起こさずに立ち去るまでの数日間占拠された。
2つの大聖堂が1つの都市にあるということはほとんど先例がなく[11]、さらに聖パトリックは、修道院外 (宗教的な規則、言い換えれば修道会やルール、の一員ではない教区の聖職者)の聖職者によって、(修道院規則によって管理されている) クライストチャーチに取って代わる大聖堂として意図されたものとある程度思われていた。
聖パトリックの設立以来数十年にわたってかなりの緊張のまま対立状態は継続して、結局1300年に調印された6つの要件からなる構成法(Pacis Compositio)によって解決した。これは法的には1870年まで有効であったが、内容は以下の通り。
その後の数世紀、国教が廃止されるまでの間2つの大聖堂は主教区の中でともに機能し、現在ではひとつ (クライストチャーチ) はダブリンおよびグレンダーロッホ主教区の大聖堂に指定され、そしてもうひとつは国立大聖堂になっている。
大聖堂は首席司祭によって率いられ、聖堂参事会全体 (もともとは13人であったが30にまで増え、現在では最高で28人となっている) で統治されている。聖堂参事会の基礎、およびその規則は1191年に作られ1192年に教皇ケレスティヌス3世によって認められた設立認可状に由来している。
聖堂参事会のメンバーはアイルランド国教会全体をあるていど表しており、数人が4つの特別高僧もしくは24の聖堂参事会員(任期制22、他教派2)の一部となっている。後述も参照のこと。聖堂参事会員の椅子ひとつはダブリン大主教に割り当てられているが、首席司祭の選出に対してのみ積極的に使われるという変わった取り決めがある。
13のもともとの参事会員のうちいくつかは後に再分配され、新しく1つが作られてそれらと置き換えられた、後にはさらに多くの参事会員が任命された。長年、聖堂参事会は4の高僧、ダブリンおよびグレンダーロッホ副大主教と24の参事会員で成っていたが、副主教は19世紀後半にメンバーではなくなっている。
上記のように、2007年6月の終わりから7月の始め頃、聖パトリックは2人の自由主義的なカノン (ecumenical canons) を任命し、一人は長老会派でもう一人はローマカトリックがその席についている。彼らは首席司祭によって、聖堂参事会の会議や決定への参加と同じように、大聖堂における朝もしくは晩の祈り、新旧約聖書の朗読、洗礼への立会い、婚姻、葬儀もしくは聖餐式の挙行に招待されることができる。
大聖堂はボランティア組織 (単年と5年の定期寄与会員と終身会員) によって支えられており、会員はいろいろな仕事や貢献 (具体的には労働や大聖堂の建造物に対するもの)を行っている。加えて、特定の仕事(たとえば鐘を鳴らしたり、来客を出迎えたり、掃除をしたり)を果たしているさまざまなボランティアグループのすみわけがある。
大聖堂は公共からの恒久的な資金提供を受けておらず、単にチャペルで祈りを捧げたい人や、観光をしたい人に対しても安い料金で全員を迎え入れている。大聖堂のウェブサイトでは2006年の来訪者は30万人を越えたとしている。また、大聖堂の出版物やそのほかの品物を売っているギフトショップがあり、売り物のいくつかは大聖堂のウェブサイトを使って直接購入できる。[12]
言い伝えによれば聖パトリック大聖堂は「chancing your arm (危険を冒す)」という表現の語源であるという。1492年、大聖堂においてキルデア伯ジェラルドはドアを切って穴を開けさらに腕をその穴に差し入れ、敵対しており部屋の中に逃げ込んだオーモンド伯ジェームズとの和睦を呼びかける努力をしたという。
クワイヤスクール (聖歌隊付属学校) はもともとは男子のみであったが現在では女子も受け入れており、大聖堂女性聖歌隊 (Cathedral Girls' Choir) は2000年に設立され週1回ないし2回歌っている。女性聖歌隊の女子たちはほとんどがクワイヤスクールもしくは中等教育を行うグラマースクールから引き込まれている。クワイヤに加入することはグラマースクールの生徒にとって強制ではないが、多くの女子生徒と数名の男子生徒 (彼らは声変わりするまでの間のみ加入が認められている) が加入している。
少年聖歌隊はプロの歌い手とみなされており、実はその仕事の対価が毎週支払われていた。彼らはまたより豊かになるために結婚式で歌うこともありこれについても対価を得ていた。彼らは自由な教育を受けていた。少年聖歌隊ではない生徒が2ヶ月の夏休みをとる間、少年の半分は夏の間毎日当番であり、聖歌隊の練習に参加しなければならず、また土曜日と日曜日の週2回の仕事を行っていた。これらの取り決めは1998年に廃止された。
聖パトリック大聖堂のオルガンは4000以上の音管を持つ、アイルランドでもっとも巨大なものである。その一部はオルガン製作者であるレナトゥス・ハリスの1695年に設置されたものに始まる。オルガンは1890年代にジョージ・マーティンとの協議のもとヘンリー・ウィリスとその息子によって作り直され、さらに1963年にオルガン製作業者のJ・W・ウォーカー&サンズ (en:J. W. Walker & Sons Ltd) によって改修された。
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都市に基づいていた小教区 (多くは長い歴史を持っている) の再編成の一環として、いくつかの小教区はダブリンにある大聖堂に結び付けられた。聖パトリック大聖堂小教区連合 (The Saint Patrick's Cathedral Group of Parishes) は別に操作教会をもっている。ドノア通りにある聖ジェームズおよび聖キャサリン教会 (St. Catherine and St. James。以前は聖ヴィクター教会St. Victor's) がそれであり、小教区の活動の中心である。
バーナード、J・H (トリニティーカレッジ学長で元聖パトリック大聖堂首席司祭)、聖パトリック大聖堂の歴史と建造物の解説、首席司祭の小評つき。London: G. Bell and Sons, 1924
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