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考烈王(こうれつおう)は、中国戦国時代の楚の王(在位:紀元前262年 - 紀元前238年)。姓は羋、氏は熊。諱は完[1]。
頃襄王の子として生まれ、太子に立てられた。
頃襄王27年(紀元前272年)、楚が秦と和平を結んだ時、人質として秦に入った。
頃襄王36年(紀元前263年)、父の頃襄王が病に倒れると、太子完は帰国して王位を継ごうと考えた。だが、秦の昭襄王はこれを許さなかった。そこで侍従の黄歇の策により、髭を剃って変装して密かに秦を脱出し、帰国して楚の王位に就いた(考烈王)。これを聞いた昭襄王が激怒したが、黄歇の死を賭した態度に感服し、代わりに考烈王の弟の公子顛(昌文君)を人質として要求したことで丸く収まり、黄歇は帰途を許された[2]。考烈王はこの功により黄歇を令尹に任じ、淮北の地12県を与えた。これより黄歇は「春申君」と号した。
考烈王4年(紀元前259年)、秦が趙を攻め寄せてきたとき、趙の公子の平原君(趙勝)と講和を結ぶ対談をしたが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の食客の毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、毛遂の働きかけで、楚と趙の盟約が成立した。
考烈王7年(紀元前256年)、楚の援軍が新中に達すると秦軍は退いた。同年、魯を攻め滅ぼし、その地を併合した。
考烈王22年(紀元前241年)、春申君が楚・趙・魏・韓・燕の5カ国連合軍を率いて、秦を攻撃した。寿陵を奪い、函谷関を攻めたが、敗走した(函谷関の戦い)。同年、東方の寿春に遷都した。
考烈王25年(紀元前238年)、考烈王は側室の兄の李園(かつての春申君の食客)に後事を託して薨去した。この後、李園は春申君を殺害して公子悍を幽王として即位させ、自らは宰相の地位に就き権力を握った。
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