羽田孜
日本の第80代内閣総理大臣 (1935-2017) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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羽田 孜(はた つとむ、1935年〈昭和10年〉8月24日 - 2017年〈平成29年〉8月28日)は、日本の政治家。1994年4月から6月まで内閣総理大臣(第80代)を務めた。1969年から2012年まで衆議院議員を14期務め、自由民主党時代には農林水産大臣や大蔵大臣を、離党後には細川内閣で副総理と外務大臣を務めた。また、新生党や太陽党、民政党の党首・代表を歴任した。
羽田 孜 はた つとむ | |
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羽田孜(1994年、総理大臣時) | |
生年月日 | 1935年8月24日 |
出生地 |
日本 東京府東京市蒲田区 (現・東京都大田区) |
没年月日 | (2017-08-28) 2017年8月28日(82歳没) |
死没地 | 日本 東京都世田谷区 |
出身校 | 成城大学経済学部経営学科 |
前職 | 小田急バス社員 |
所属政党 |
(自由民主党(佐藤派→田中派→竹下派→羽田派)→) (新生党→) (新進党→) (太陽党→) (民政党→) (民主党→) 民進党 |
称号 |
従二位 桐花大綬章 |
配偶者 | 羽田綏子 |
子女 |
羽田雄一郎(長男) 羽田次郎(次男) |
親族 |
羽田貞義(祖父) 羽田武嗣郎(父) 神津健(甥) |
サイン | |
第80代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 羽田内閣 |
在任期間 | 1994年4月28日 - 1994年6月30日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
第96代 大蔵大臣 | |
内閣 | 宮澤内閣 |
在任期間 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
第9・12代 農林水産大臣 | |
内閣 |
第2次中曽根第2次改造内閣 竹下改造内閣 |
在任期間 |
1985年12月28日 - 1986年7月22日 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
内閣 |
(旧長野県第2区→) 長野県第3区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1969年12月27日 - 2012年11月16日 |
その他の職歴 | |
初代 民主党幹事長 (1998年4月 - 2000年9月) | |
民政党代表 (1998年1月 - 1998年4月) | |
太陽党党首 (1996年12月 - 1998年1月) | |
新進党副党首 (党首:海部俊樹) (1994年 - 1996年) | |
新生党党首 (1993年6月23日 - 1994年12月10日) | |
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羽田は1935年8月24日、後に衆議院議員となる羽田武嗣郎の長男として誕生した。上田第二中学校、成城学園高校、成城大学経済学部を卒業後、1958年に小田急バスに就職。1965年に綏子と結婚し、雄一郎と次郎の2人の息子をもうけた。1969年には父の後を継いで長野2区から自民党公認で当選した。佐藤派に始まり次いで田中派に所属し、第2次中曽根内閣で農林水産大臣を務めた。羽田は竹下派の結成に加わり、竹下派七奉行の一人に位置づけられた。竹下内閣でも再び農林水産大臣を務め、宮澤内閣では大蔵大臣を務めた。しかし、1992年に東京佐川急便事件によって竹下派が分裂すると、羽田は小沢一郎と共に政治改革を掲げ羽田派を立ち上げた。
1993年6月には宮澤内閣の不信任決議案に賛成して自民党を集団離党し、自らを党首とする新生党を結成した。同年に誕生した細川内閣では連立与党として副総理と外務大臣を務めた。1994年に細川が辞任すると後を継いで第80代内閣総理大臣に就任した。しかし日本社会党が連立を離脱したことで少数与党政権となり、在職64日で総辞職した。
退任後は新生党を解党して結成された新進党に参加した。羽田は党首選挙に出馬するも海部俊樹に敗れ副党首となった。1995年には再び党首選挙に出馬するも小沢に敗れた。1996年には新進党を離党して太陽党を結成し党首に就任した。1997年末に新進党が分裂すると1998年に民政党を結成して代表に就任した。1998年4月には民主党の結成に加わり、初代幹事長を務め、その後は羽田グループのトップとして特別代表や最高顧問を務めた。しかし、健康状態の悪化により2012年12月の衆議院解散をもって政界を引退した。その後は療養生活を送り、2017年8月28日に老衰で死去した。
羽田は選挙制度改革に取り組んでいたことで知られ、「ミスター政治改革」とも呼ばれる。温厚な人柄であったことから調整型の人物としても知られていた。一方で、小沢一郎とのコンビが「二重権力」と批判されたほか、自身が首相を務めた羽田内閣は64日間で退陣し、目立った実績を残さなかった。