立見豊丸
日本の陸軍軍人、政治家 ウィキペディアから
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立見 豊丸(たつみ とよまる、1880年(明治13年)1月28日[1] - 1942年(昭和17年)11月2日[2][3])は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院子爵議員、陸軍政務次官などを歴任。
陸軍大将、男爵・立見尚文の二男として生まれ、父の死去に伴い1907年(明治40年)5月2日に男爵を襲爵し[4]、同年10月2日には父の功で子爵に陞爵した[5]。
1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、1900年(明治33年)6月22日、砲兵少尉任官[6]。陸軍砲工学校高等科で学び[2]、1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業[7]。陸軍士官学校教官、東京湾要塞参謀、山砲兵第1連隊長、野戦重砲兵第7連隊長などを歴任した。1923年(大正12年)、陸軍砲兵大佐で予備役に編入された[2]。
1932年(昭和7年)7月10日、貴族院子爵議員に当選し[8][9]、研究会に属して活動し死去するまで在任[2][10]。廣田内閣では陸軍政務次官を務め、その他、維新史料編纂会委員も務めた[2]。墓所は青山霊園。
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