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日本の実業家 ウィキペディアから
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。
神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である[1]。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。
1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた[1]。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した[2]。1911年(明治44年)7月頃には豊橋市大字東八乙の豪壮な家に転居し、豊橋市立八町尋常小学校(現・豊橋市立八町小学校)に転校した[2]。
1916年(大正5年)4月には愛知県立第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)に入学し[3]、1921年(大正10年)3月に第四中学校を卒業した(第22回卒業生)[4]。名古屋市の旧制第八高等学校(現・名古屋大学)を受験したが不合格だったため、1921年(大正10年)4月には慶應義塾予科に入学した[4]。本科に進学する際には文学部を志望していたが、父親の神野三郎に反対されたことで法学部法学科に進学した[4]。1927年(昭和2年)5月に慶應義塾大学法学部法学科を卒業し、卒業直前の3月13日に浅野花子と結婚している[5]。
1927年(昭和2年)の大学卒業後には三井信託銀行に入社したが、父親の神野三郎が貧血で倒れたことで帰郷を要請され、1933年(昭和8年)11月には6年目だった三井信託銀行を退社した[6]。同年12月には神野三郎が設立に関与した豊橋瓦斯に初出社し、1934年(昭和9年)には豊橋瓦斯の支配人となると、1941年(昭和16年)には豊橋瓦斯の取締役社長となった。1943年(昭和18年)に豊橋瓦斯と浜松瓦斯が合併して中部瓦斯(現在の中部ガス)が設立されると、いったんは父親の三郎が社長となったが、1944年(昭和19年)には太郎が社長に就任した。戦前から戦後にかけての中部瓦斯の社業を発展させ、東三河地方の地域産業の発展に寄与した。1966年(昭和41年)には中部瓦斯代表取締役会長に就任した。
1943年(昭和18年)には愛知県商工経済会豊橋支部長。1943年(昭和18年)には神野新田土地株式会社取締役。終戦直後の1946年(昭和21年)には豊橋文化協会の会長に就任し、アマチュアオーケストラの育成に尽力した。1950年(昭和25年)には豊橋ロータリークラブ会長。また2度にわたって豊橋商工会議所会頭も務めた。1955年(昭和30年)に愛知県教育委員。1963年(昭和38年)には趣味で収集したクラシックSPレコード1,091枚を豊橋市図書館に寄付し[7]、1983年に開館した豊橋市中央図書館には個人文庫「神野太郎コレクション」が設置された。1980年(昭和55年)11月3日には7人目の豊橋市名誉市民に推挙された[8][9]。1983年(昭和58年)9月24日に惜しまれながら没した。
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