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澤野 久雄(さわの ひさお、1912年12月30日 - 1992年12月17日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の小説家。
埼玉県浦和町(現・さいたま市)生まれ。埼玉県立浦和高等学校を経て、早稲田大学国文科卒。都新聞(現東京新聞)に勤務した後、1940年、朝日新聞社に入社、49年に同人誌『文学雑誌』に発表した「挽歌」が芥川賞候補になり、川端康成の恩顧を受ける。1951年、「方舟追放」で再度芥川賞候補、52年に「夜の河」を発表、三度芥川賞候補となるが落選、しかし同作は1956年に山本富士子主演で映画化され、これが代表作となった。1955年、「未知の人」で四たび芥川賞候補、遂に受賞には至らなかった。朝日新聞東京本社学芸部員だった1958年から翌年まで、夕刊に『火口湖』を連載、完結後に退職して作家専業となる。1969年には再び朝日新聞に『失踪』を連載。
愛煙家だった澤野は、1981年「たばこを吸う男の人とはけっこんしません」などと書いた少女の作文が賞をとった時に、週刊文春誌上でこれを批判し、それに対して作文募集団体の一つである日本心臓財団が抗議し話題となった。[1]。1984年に肺がんのため左肺を切除したが健康を回復し、闘病記『生きていた』を刊行した。
湯川秀樹の自伝『旅人』が朝日新聞に連載されたとき、同新聞社学芸部の記者をしていた澤野は、これに協力した[2]。このとき、少年時代の秀樹を神童として描くか否かをめぐって、湯川夫妻と澤野の間に対立があったといわれる。澤野は秀樹を努力型の偉人として描くのがよいとしたのに対し、秀樹の妻スミは「湯川は小さいときから神童で、衆にすぐれていたのです」と主張したそうである。連載終了から10年ののち、澤野が1967年4月、「山頂の椅子」を『新潮』に発表したとき、世間はこれをモデル小説だとして話題にした。澤野は「この小説を書くにあたって、湯川氏を知ったということが一つの契機にはなってますが、あくまできっかけであって、書くまでの10年間のうちに、ぼくの中で発酵しているわけですから、これは今日でも創作だと確信していますね」と、モデル小説であることを否定している[3]。湯川は取材に対し、「大いに迷惑」といいながらも、「小説家はフィクション考えられるのが仕事やから、仕方ないと思ってますよ」という受け止め方をしていた。スミは「うちのこととはあまりに違いますから、別にどうということはございません」と、さらに冷静であった[4]。
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