済南事件
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済南事件(さいなんじけん、中国では五・三惨案)は、1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蔣介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件[1]。事件の発端については日本と中国では見解が異なる[1]。
概要 済南事件, 交戦勢力 ...
済南事件 | |
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山東省済南市(赤字でJINANと記載。地図は21世紀現在の中華人民共和国とその周辺国を表したもの) | |
戦争:山東出兵 | |
年月日:1928年(昭和3年)5月3日 | |
場所: 中華民国、山東省済南 | |
結果:日本軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
福田彦助 | 蔣介石 |
損害 | |
日本人居留民:
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中国民間人・国民革命軍: |
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また、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した[2][3]。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
衝突はいったん収まったものの、軍事当局間の交渉が決裂。5月8日早朝、日本軍は済南城への攻撃を開始[1]。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は済南を占領した[4]。1929年3月に合意が成立し、日本軍が撤退した[1]。