河内女王
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河内女王(かわちじょおう/こうちのおおきみ、生年不明 - 宝亀10年12月23日(780年2月5日))は、奈良時代の日本の皇族。高市皇子の皇女[1]。位階は正三位。
聖武朝の天平11年(739年)正月、粟田女王らとともに従四位下から従四位上に昇叙する[2]。
天平20年(748年)3月、正四位下を授けられる[3]。同月、元正上皇の難波宮行幸に随伴し、橘諸兄の邸宅で酒宴が催された際に
橘の 下照(したて)る庭に 殿(との)建てて 酒(さか)みづきいます 我(わ)が大君(おほきみ)かも(橘の 木陰も輝く庭に 御殿を建てて 酒盛りをなさる わが大君よ[4])
という歌を詠んでいる。なおこの歌は、季節からして、天平16年夏に、聖武天皇らが難波宮に行幸した際の歌だという説もある[5][6]。
淳仁朝の天平宝字2年(758年)8月、従三位[7]、同4年(760年)5月、正三位にすすむ[8]。
のち神護景雲3年(769年)の不破内親王の事件に連坐したものか、無位とされており、光仁朝の宝亀4年(773年)正月、不破内親王が本位四品に復したのと同時に、正三位に復した[9]。宝亀10年12月23日薨去[1]。高市皇子は持統天皇10年(696年)に没しているので、河内女王の年齢は少なく見積もってもこの時点で83歳以上の高齢である。なお、『公卿補任』宝字四年条によると、「河内王」という名のほぼ同年齢の皇族がいて、天武天皇8年生まれとなっているようで、そこからすると、河内女王は元正天皇と同年齢の従姉妹となり、上記の歌の頃は65歳だった、ということになる[10]。
『続日本紀』による。
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