Loading AI tools
ウィキペディアから
但馬掾・春宮少進を経て、天長2年(825年)従五位下・大蔵少輔次いで民部少輔に任ぜられる。翌天長3年(826年)春宮大進兼丹波権介に任ぜられ、再び皇太子・正良親王(のち仁明天皇)に仕える。のち、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い正五位下、同年11月従四位下と淳和朝末から仁明朝初頭にかけて急速に昇進した。
仁明朝では、右衛門権佐・刑部大輔・内蔵頭・播磨守・右兵衛督を歴任し、承和8年(841年)従四位上に叙せられる。承和9年(842年)に承和の変が発生した際には右兵衛督の官職にあったが、弟・逸勢が謀反の疑いを受けたため、当時武官の官職を帯びていた一族の時枝(右衛門少尉)・三冬(右馬大允)と共に、自ら武器を解いて朝廷に提出する[1]。結局、永名は連座して解官の上で京外に追放される。
承和12年(845年)入京を許され、のち弾正大弼・神祇伯を経て、仁明朝末の嘉祥2年(849年)正四位下に叙せられる。当時としては長寿を保ち、清和朝の貞観2年(860年)には81歳にして従三位に叙せられ公卿に列した。
『六国史』による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.