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戦国時代から江戸時代前期の武将。黒田氏の筆頭家老。備後守 ウィキペディアから
栗山 利安(くりやま としやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
黒田氏の筆頭家老で、黒田二十四騎、黒田八虎の1人である。黒田孝高の股肱の家臣として厚い信任を受ける。家臣の中では序列第1位であって一老と称された[4]。子に黒田騒動を起こした事で有名な利章がいる。通称は善助(ぜんすけ)。
天文19年(1550年)、播磨国姫路栗山(現在の姫路市栗山町付近)にて生まれる[1][注釈 2]。
永禄8年(1565年)夏から黒田孝高に側近として仕えた[4]。永禄9年(1566年)に初陣[3]。永禄12年(1569年)の青山・土器山の戦いで、首級を2つ挙げ、83石相当の家禄を与えられる。天正6年(1578年)に孝高は織田信長に反逆した荒木村重を説得するために有岡城に向かってそのまま捕らえられたが、利安は翌天正7年(1579年)にこれを救出している[1](有岡城の戦い)。
天正8年(1580年)、孝高が播磨国揖東郡で1万石を与えられると、利安も200石に加増された。天正16年(1588年)孝高が豊臣政権下で豊前馬ヶ岳城の領主になると、一気に5,800石を加増されて6,000石を与えられ[5]、平田城代となった。
文禄2年(1593年)に主君・孝高が隠居すると、その子の黒田長政に仕えて朝鮮出兵にも参加し、晋州城の戦いで功績を挙げた[1]。慶長3年(1598年)に帰国後、井上之房と共に宇佐神宮の造営に当たった[6]。慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍。その後の関ヶ原の戦いでは黒田如水(孝高)と共に豊後国に出兵し、西軍の大友義統と戦い(石垣原の戦い)、武功を挙げた[1]。戦後、長政が筑前国に移封されると、朝倉郡に1万5,000石の所領を与えられ[1]、筑前六端城の一つ、麻底良城の城主となった。この時、息子の利章にも利安とは別に3,300石を与えられており、合計2万石弱の大身となった[4]。
元和3年(1617年)に子の利章に家督を譲り、元和9年(1623年)に長政が死去したのを機に隠居し、一葉斎卜庵と号した。
寛永8年(1631年)8月13日の朝、利安は病床にあり、看護の者達が枕元に集まってその死を看取ろうとしていた。その時、利安は目を開けていきなり「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。あれに敵が出たぞ。あの山に鉄砲を上げて撃たせよ。敵の騎馬が来たら、折り敷いて迎え撃て。わしの采配を見て、慌てず静々とかかれ」と立て続けに述べ立てた。それに周囲は驚いて「かしこまりました」と答えると、利安はまた寝入り、1日の内に5度も同じ事を繰り返した末、8月14日の夜明けに死去した[4]。享年82。死の直前のこの出来事に、人々は「絶えず軍陣の事を考え、敵に備えていた事がこの譫言(うわごと)でわかる。大剛の人、奇特な一念かな」と感嘆したという[4]。
黒田孝高の股肱の家臣であり、孝高に仕える間、戦場の功名を11度挙げた。5度は勇士としての働きであり、6度は采配をとっての功名であった[4]。
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