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松原 葆斎(まつばら ほうさい、文政8年(1825年)8月9日 - 明治31年(1898年)1月9日)は幕末の漢学者。諱は衢(ちまた)。字は何天。通称は恕平。別号は約軒。
信濃国松本藩医の松原有恒(素庵)の子として生まれる。藩校崇教館に学んだ後、天保12年(1841年)、江戸に出て野田笛浦、安積艮斎に師事する。弘化4年(1847年)に藩主松平光則の上洛に従い、典薬頭岡本甲斐守に医学を学び、嘉永3年(1850年)には長崎に出向いて医学の傍ら海外情勢を研究し、同6年(1853年)に帰藩して儒医となった。崇教館では経義のほか文学を課し、学風を一変させた。文久元年(1861年)昌平黌に学び、経義掛、同校舎長助役など務める。慶応2年(1866年)には長州征伐に従軍し、同3年(1867年)小納戸格の藩儒官として仕える。
明治3年(1870年)には、昌平黌改め大学南校に中助教として12等官禄で登用されたが、再び帰藩し、大属として藩政に参与した。版籍奉還後、同5年(1872年)に筑摩県学(のちの旧開智学校)に勤務し、同時に開設された筑摩県師範講習所の漢学科教授となった。同7年(1874年)に文部省に十二等級で出仕し、同10年(1877年)に帰郷、北安曇郡池田学校に主座教員として招聘され、長野師範学校松本支校や旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)などで漢文を教えた。同23年(1890年)に退職し、私塾を中心に子弟を教育した。
蔵書は遺族により松本市図書館に寄贈され、「松原文庫」となっている。
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