東西遊記
橘南谿による紀行作品 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき[1])』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。
両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた[2]。なお、細かく見ると『西遊記』、『西遊記続編』、『東遊記』、『東遊記後編』となるが、前2者を併せて『西遊記』と、後2者を併せて『東遊記』と称するのが一般的である(以下、区別する際には「『西遊記』(正編)」「『西遊記続編』」等と記す)。また、南谿自身は板行された両遊記を後に『東西遊記』として統合する意図を有していたという[3]。
医家である南谿は『傷寒論』に関するもの等複数の医書も著しているが、本両遊記や随筆である『北窓瑣談』といった文人としての著作もあり、『北窓瑣談』は当代の名随筆と評され、両遊記も江戸時代後期を通じてたびたび版を重ねる等、むしろ本業よりも後者としての活動の方が著名であったと言え[4]、とりわけ両遊記は延宝期から元禄期(17世紀後期)に著された貝原益軒による一連の紀行と並んで江戸時代を代表する紀行とされる[5]。