東プロイセン
バルト海南岸にある地域の歴史的な地名 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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東プロイセン(ひがしプロイセン、ドイツ語: Ostpreußen、ポーランド語: Prusy Wschodnie、ロシア語: Восточная Пруссия、リトアニア語: Rytų Prūsija)は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名である。ワイクセル川(ヴィスワ川)とメーメル川(ネマン川)に挟まれている[1]。「プロイセン」を英語読みとした東プロシア、あるいは「東」をドイツ語読みとしたオストプロイセンとしても知られている。首都は、ケーニヒスベルク。
首都 | ケーニヒスベルク | ||||||||||||||
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現在 | ロシア (カリーニングラード州) ポーランド リトアニア |
- 東プロイセン
- Ostpreußen (ドイツ語)
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← 1772年 - 1829年
1878年 - 1945年→
→
→(国旗) (国章)
1871年、ドイツ帝国領内、プロイセン王国の東プロイセン(赤)
東プロイセンは、バルト民族のプルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団によって征服され、ドイツ騎士団国となった。ドイツ騎士団国は1525年にプロイセン公国となり、プロイセン公国は1701年に王国へ昇格した。1772年、ポーランド・リトアニア共和国の分割で西プロイセンすなわち王領プロイセン(ポーランド王国領であった)もプロイセン王国領となると、それまで飛び地だった東プロイセンは王国の残りの部分と陸続きになった。1871年、ドイツ帝国が成立すると、東プロイセンもその一部となった。
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で、西プロイセンがポーランド領(ポーランド回廊)となると、東プロイセンは再び飛び地となった。またこのとき、メーメルが分割されてリトアニア領となっている。第二次世界大戦まではワイマール共和国のプロイセン自由州北東端の地域であった[1]。ナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗れると、東プロイセンはソ連とポーランドによって分割された。ソ連領となった部分はソ連崩壊後、さらにロシアとリトアニアに分割された。