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朝鮮の作家 ウィキペディアから
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は、朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏[1]。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は「香山光郎」(かやま みつろう)。
平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院普通学部在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。在学中に『無情』を発表。1919年、三・一運動に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに「二・八独立宣言」の起草に加わった後、上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。1921年に朝鮮に帰国にした後、朝鮮総督府に逮捕されるが不起訴のまま釈放される。その後東亜日報に就職。後に編集長に就任する。後に朝鮮日報に移籍し、同社副社長となる。
民族主義的な立場から儒教思想と因習を批判する啓蒙主義的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず東亜日報に「民族的経綸」などの論説を掲載し、朝鮮の亡国の原因は朝鮮民族自身の劣位性にあるとし、1922年発表の『民族改良論』では民族改良主義と呼ばれる民族の実力養成を説いた。1937年に修養同友会事件で2度目の逮捕、収監(半年後釈放、1941年無罪確定)された後は植民地当局の圧力に屈服し2度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。創氏改名の推奨に尽力し、自らも香山光郎と名乗った。また、日本語による創作も行い1940年3月には『無明』で朝鮮藝術賞を受賞している。第二次世界大戦中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけた[2]。1945年(昭和20年)6月24日、朝鮮人唯一の衆議院議員だった朴春琴は京城府民館において 「大義党」を結成したが、李光洙もこれに加わっている。
朝鮮解放後に収監され釈放後も親日派の烙印が押され、「李狂洙[3]」などという蔑称まで付けられ作品の評価をうけることは少なかった。李承晩政権下では反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で「私の親日は祖国の為のものだ!」と叫んだと伝えられている。また、「たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい」と訴えたとも言われる[2]。
朝鮮戦争中、朝鮮人民軍がソウルを占拠した際に北朝鮮に拉致され、その後、重度の凍傷に罹って1950年10月25日、人民軍病院で結核の悪化のため死去した(平壌近郊に建てられた墓には、その日に亡くなったと記されているが異説も存在する)。
死去から20年後の1970年にノーベル文学賞候補となっていたことが、ノーベル賞委員会の公表した候補者リストにより確認されている[4](通常、物故者は受賞対象とならない)。
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