本城宣馬
徳山藩士、日本陸軍軍人 ウィキペディアから
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本城 幾馬(ほんじょういくま、旧名:宣馬、弘化4年(1847年)6月21日 - 1904年)は、徳山藩士、日本陸軍軍人。妻は留、子は本城嘉守。
安政元年(1854)、7歳で興譲館入館。元治元年(1864)、父本城清が俗論党により入獄される。家柄断絶の為、実家浅見家に預かりの身となる。翌年、徳山七士殉難により父を失う。清が獄中に於いて妻子に宛てた遺書は下記のようなものである。
於寿美殿へ 一筆申し残し候、拙者厳刑を蒙るといへども、其の罪にあらざれば悲しみ給うことなく、忠臣の妻となり候て幸せなりと諦められ、目出度き余年を送り給へかしと存じまいらせ候、かしく
次に宣馬に申し残し候事 我等幼きより篤く聖賢の道を信じ、守る所を失はず候て、かかる厳戮を蒙り候は天也、悲しむに足ることなし、汝幼年と申すにもこれなく候へば、我等の心底をつらつら体認せしめ、忠孝の道を守り、いかなる患難に逢い候とも、人に指をさされず、父の名を落とし申さざる様、心掛けらる可く候事、
- 一、文武の心掛け、ゆるがせこれある間敷く候事
- 一、酒色に耽り申す間敷く候事
- 一、叔父様を我等と相い心得、父の如く念を入れ、御教戒を乞い申さる可く候事
- 一、母へ懇ろに到さる可く候事
等を遺言として殉じた。
冤罪をもって父を失い、犯罪人の子という境遇に17歳で置かれた心情はいかばかりであったろう。この境遇は、児玉源太郎も同じであった(小説:天辺の椅子冒頭にて書かれている)。
慶応元年(1865年)、本城家は家柄を回復し、宣馬は家督を仰せ付けられる。明治元年、21歳の時に奥州征伐従軍。明治4年7月、陸軍条例制定後の8月、歩兵少尉任官。明治8年3月に陸軍大尉任官。明治17年には佐賀の役、西南戦役の功により勲5等。明治21年歩兵少佐昇進し、近衛歩兵第2連隊、その後歩兵第8連隊大隊長、大津大隊区司令官などを歴任し明治31年退官。従5位。明治37年(1904年)、57歳で永眠。
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