早淵恒治
大日本帝国陸軍軍人 ウィキペディアから
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早淵 恒治(早渕、はやぶち つねじ、1901年(明治34年)1月24日[1] - 1964年(昭和39年)8月3日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
愛知県出身[1][2]。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業[2]。1931年(昭和6年)陸軍大学校第43期を優等で卒業[3]。
支那事変で軍務課外交班長から中支那派遣軍隷下の第3飛行集団参謀として出動する[1]。1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、陸軍航空本部第2課長に補され[2]、翌年の1942年(昭和17年)12月には第6飛行師団参謀長となり[2]、ニューギニア戦線を指揮した[1]。ついで航空本部附、陸軍大学校教官を経て、1945年(昭和20年)1月、陸軍航空士官学校教授部長に補され、同年3月、陸軍少将に進んだ[1][2]。
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