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斎藤 利永(さいとう としなが、? - 長禄4年5月27日(1460年6月16日))は、室町時代の武将。美濃守護代。斎藤宗円の嫡男で弟に斎藤妙椿、利任[注釈 1]、周倫。帯刀左衛門尉、越前守と称す。妻は赤松氏の出身(後妻)。先妻の子に利藤、典明、後妻の子に利国(妙純)、利安(敬仲元粛)、利綱らがいる。法名は大功宗輔大居士。
文安元年(1444年)閏6月19日、父が守護代富島氏を殺害したことに始まる美濃の合戦に参加、翌文安2年(1445年)8月、美濃における斎藤氏の拠点として加納城を築城したという。守護代就任以前は在京することが多く、和歌をよくし、禅宗にも深く帰依したという。宝徳2年(1450年)9月、父が暗殺されると、暗殺の首謀者である富島氏・長江氏と戦い討ち滅ぼし、まもなく守護代となる。
康正2年(1456年)、土岐持益の嫡子持兼が亡くなると、後継者問題が発生した。持益の孫で持兼の庶子亀寿丸(当時3歳)を推す声があったが、利永は拒否し、まだ壮年の持益を隠居させ土岐成頼を守護職に据えた。長禄4年(1460年)、中風を患い死去。武勇に優れて清廉な武将であったとされ、その死を惜しむ記録が残されている。
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