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菊池氏の祖菊池則隆の孫・経政から分家して、志岐光弘は元久2年(1205年)に源実朝から、建暦2年(1212年)に北条義時から天草郡六ヶ浦の地頭職を得たとされる[2]。
南北朝時代は一色範氏に属して旧領を安堵された。のちに惣領家である菊池氏の後盾を利用して勢力を拡大し、上津浦、宮地、天草、長嶋、大矢野などの一揆の盟主にまで成長した[2]。
しかし、志岐鎮経(麟泉)の代になって大友宗麟の侵攻に見舞われ、大友氏の勢力が天草まで及んだ頃には、一揆内の内紛が絶えず、貧窮した鎮経は南蛮貿易で利益を得る許可を宗麟に求めた[2]。鎮経の養子・諸経(別名は麟仙、有馬晴純の五男[1])はルイス・デ・アルメイダを呼び寄せ、ガスパル・ヴィレラらにキリスト教の布教を認めた[2]。しかし、元亀元年(1570年)以降、南蛮船の来航はなく、これに激怒した鎮経(麟泉)は一転してキリスト教徒を迫害した[2]。
天正9年(1587年)以降は台頭してきた島津氏に仕え転戦した。天正15年(1593年)の豊臣秀吉による九州平定には敗れたものの、旧領を安堵された[1]。
しかし、天正17年(1595年)、鎮経(麟泉)は小西行長の居城・宇土城の普請を拒否して天草国人一揆に加勢、小西氏・加藤氏の攻撃に敗れ肥前有馬氏を頼って逃走した[2][1]。ここをもって国人領主としての志岐氏は終焉を迎えた。
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