嵐作戦
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この項目では、ユーゴスラビア紛争における作戦について説明しています。砂漠の嵐作戦については「湾岸戦争#砂漠の嵐」を、8月の嵐作戦については「ソ連対日参戦」を、ウルシー環礁攻撃作戦については「第六三一海軍航空隊」をご覧ください。 |
嵐作戦(あらしさくせん、クロアチア語・ボスニア語・セルビア語:Operacija Oluja / Операција Олуја)は、クロアチア共和国軍を主体とし、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の協力の下、クロアチア領内で事実上独立状態にあったクライナ・セルビア人共和国を奪還するための全面的軍事作戦のコードネームである。クライナ・セルビア人共和国は1991年以降、セルビア人の分離主義者によって事実上の独立国として統治され、クロアチアの支配権が及んでいなかった[2][3]。
嵐作戦 | |
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クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中 | |
嵐作戦 | |
戦争:クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 | |
年月日:1995年8月4日から8月7日 | |
場所:クロアチア(クライナ・セルビア人共和国) | |
結果:クロアチア共和国軍の完全勝利。クライナ・セルビア人共和国は消滅。セルビア人住民20万人ほどがクロアチア脱出 | |
交戦勢力 | |
クロアチア共和国軍 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH) |
クライナ・セルビア人共和国 スルプスカ共和国軍(VRS) |
指導者・指揮官 | |
ズヴォニミル・チェルヴェンコ(Zvonimir Červenko) アティフ・ドゥダコヴィッチ(Atif Dudaković) |
ミレ・ムルクシッチ(Mile Mrkšić) |
戦力 | |
兵士175,000人 戦車375輌 大砲500門 ロケット・ランチャー50門 航空機およびヘリコプター50機 |
兵士40,000人 戦車150輌 大砲350門 ロケット・ランチャー20門 ヘリコプター10機 |
損害 | |
兵士174人死亡、1,430人負傷[1] | (1) 兵士700人死亡、市民677人死亡、捕虜5,000人、難民90,000人(クロアチア側情報) (2) 兵士742人死亡、少なくとも市民1,196人死亡、難民250,000人(セルビア側情報) 難民200,000人(国連) |
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作戦は36時間続き、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最大の陸上進攻作戦と記された[4]。作戦は、1995年8月4日の未明に始まり、4日後にはクロアチア軍による完全勝利に終わった。
クロアチア軍はアメリカ合衆国に拠点を置く民間軍事会社ミリタリー・プロフェッショナル・リソーシズ(Military Professional Resources Incorporated; MPRI)によって訓練を受けていた[5]。この契約はアメリカ合衆国政府によって是認されていた[6]。
当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは回想録のなかで、地上での大規模な損失を与えることのみによってセルビア人を交渉の席に着けることが出来ると確信していたと述べている[7]。後に交渉はデイトン合意としてまとまり、クロアチア紛争およびボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させた。
当時のアメリカ合衆国の和平交渉者リチャード・ホルブルックは、「クロアチアのクライナに対する攻勢によっていかに劇的にバルカンの戦況を変化させ、それによって外交攻勢も変化したかを思い知った」と話した[8]。退役した将軍でアメリカ統合参謀本部戦略計画・政策部の長官、後のNATO欧州連合軍最高司令部のウェズリー・クラーク(英語版)は、簡潔に「転換点」であったと述べている。
スレブレニツァの虐殺後、ボスニア・ヘルツェゴビナのビハチでも同様の大量虐殺の発生が懸念されていた。ビハチは、スレブレニツァの4倍の規模があり、クロアチア領のクライナ・セルビア人共和国やボスニア・ヘルツェゴビナ領のスルプスカ共和国といったセルビア人勢力に包囲され、攻撃を受けていた。
およそ15万人から20万人の[9]セルビア人が、迫り来るクロアチア軍から逃れ、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力支配地域や、さらに東にあるセルビアまで脱出した。欧州連合の旧ユーゴスラビア担当特使カール・ビルトは、1995年8月7日、「これまでバルカン見た中で最も効果を発揮した民族浄化」と呼んだ[10]。これに対してクロアチア共和国の外相は、ビルトによる評価は「根拠がない」と答えた[11]。ドイツの外相クラウス・キンケル(Klaus Kinkel)は、「遺憾」を表明する声明を発したが、同時に「セルビア人勢力による攻撃の年月を忘れてはならない。それはクロアチアの忍耐力に対する過酷な挑戦であった。」と付け加えた[12]。アメリカ合衆国政府は自制を呼びかけたものの、軍事行動が「クライナ・セルビア人勢力によるムスリム人の飛び地ビハチへの攻撃によって引き起こされたもの」であったとした[13]。軍事攻勢はボスニア・ヘルツェゴビナ領内に入ってからはミストラル作戦として続けられた。
クロアチア政府は、主権国家が自国の領土の支配権を守る権利に基づき、作戦を正当化している。クロアチア政府はまた、「戦争犯罪」に加担していないクロアチア領のセルビア人は、クロアチア領に帰還できると強調している[14]。
クロアチアでは、8月5日は「勝利と祖国への感謝の日」として国民の祝日となっている。