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明治期の実業家 ウィキペディアから
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年12月18日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。
下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)で2代・清七の長男として生まれる[1]。家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする[2]。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した[3]。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ[4]、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
家業の米穀商、醤油醸造業を継ぎ、陸軍省と提携。八茎鉱山の社長・広瀬金七の協力を得て磐城セメント(後の住友大阪セメント)を設立。日清紡績、日本製粉などの経営に関わり、東京瓦斯社長、全国実業協会会長、大日本産業報国会審議員等を歴任した。1919年日本製粉社長[5]。
1929年にはジュネーブで開催された第12回国際労働会議への出席を主目的に、長男の清一郎を連れて欧米各国を視察した。
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