寝殿造平安時代から中世にかけての上層住宅の建築様式 / ウィキペディア フリーな encyclopedia 親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:トップの事実と統計を挙げていただけますか 寝殿造?この記事を 10 歳向けに要約してくださいすべての質問を表示寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代から中世にかけての建築様式である[9][10]。 010:法隆寺の聖霊院(しょうりょういん)。東大寺再建は中国風の大仏様でなされたが、一時的かつ東大寺だけに限られており、奈良の大工は京で寝殿造を建てていた木工寮等の大工(だいこう)の影響下にあった[1]。聖霊院には寝殿造の技法が残り、「中世建具の宝庫」[2]とも言われ、太田博太郎は「屋根も瓦を檜皮葺に置き換えて考えれば対屋そのままの姿」[3]と言う[注 1]。 030:東三条殿平面図川本重雄『寝殿造の空間と儀式』[4]より作成。現在ではこの川本案が最も信頼性が高いとされている。寝殿等の母屋の柱間寸法は10尺とされるが、寝殿と東対の南庇、及び中門廊は梁間12尺程度である可能性が高い[5]。 040:藤原頼長の宇治小松殿平面図[6]寝殿造も確実な史料に基づく復元図では一様ではないという最初の例である。まず侍廊がつながっておらず、馬道(めどう)[注 2]で切り離される。次に孫庇が北ではなく南に追加されている[注 3]。なおこの屋敷は藤原忠実から頼長に譲られたものである。 050:平清盛の六波羅泉殿平面図一様でない第二の例。母屋が並戸で南北に仕切られる[7]。古文書に残る指図は中宮の出産の室礼指図、つまりその時点では中宮御所であるので殿上あるが、通常侍所である建物は馬道[注 2]を挟んだ別棟である[注 4]。なお柱間寸法10尺と仮定して作図しているが、実際にはそれより小さく、また建物により長短がある可能性が高い[5]。 060:藤原定家の京極殿・平面図最小の寝殿造[8]とも呼ばれる。ものの建造当初の姿。後に中門廊代が付加された[注 5]。
寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代から中世にかけての建築様式である[9][10]。 010:法隆寺の聖霊院(しょうりょういん)。東大寺再建は中国風の大仏様でなされたが、一時的かつ東大寺だけに限られており、奈良の大工は京で寝殿造を建てていた木工寮等の大工(だいこう)の影響下にあった[1]。聖霊院には寝殿造の技法が残り、「中世建具の宝庫」[2]とも言われ、太田博太郎は「屋根も瓦を檜皮葺に置き換えて考えれば対屋そのままの姿」[3]と言う[注 1]。 030:東三条殿平面図川本重雄『寝殿造の空間と儀式』[4]より作成。現在ではこの川本案が最も信頼性が高いとされている。寝殿等の母屋の柱間寸法は10尺とされるが、寝殿と東対の南庇、及び中門廊は梁間12尺程度である可能性が高い[5]。 040:藤原頼長の宇治小松殿平面図[6]寝殿造も確実な史料に基づく復元図では一様ではないという最初の例である。まず侍廊がつながっておらず、馬道(めどう)[注 2]で切り離される。次に孫庇が北ではなく南に追加されている[注 3]。なおこの屋敷は藤原忠実から頼長に譲られたものである。 050:平清盛の六波羅泉殿平面図一様でない第二の例。母屋が並戸で南北に仕切られる[7]。古文書に残る指図は中宮の出産の室礼指図、つまりその時点では中宮御所であるので殿上あるが、通常侍所である建物は馬道[注 2]を挟んだ別棟である[注 4]。なお柱間寸法10尺と仮定して作図しているが、実際にはそれより小さく、また建物により長短がある可能性が高い[5]。 060:藤原定家の京極殿・平面図最小の寝殿造[8]とも呼ばれる。ものの建造当初の姿。後に中門廊代が付加された[注 5]。