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日本の陶芸家 ウィキペディアから
富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家。人間国宝、文化勲章受章者。尾竹紅吉は妻。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男。
大阪府平群郡安堵村(現・奈良県生駒郡安堵町)の大地主の家に生まれ、幼少より絵を学ぶ。東京美術学校に入学して建築、室内装飾を専攻。在学中にウィリアム・モリスの工芸思想に影響され1908年(明治41年)、卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品にふれる。ロンドンで建築家・新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡る。実家から帰国命令が届いたため1910年(明治43年)帰国。清水組(現・清水建設)に入社するが、ほどなく退社。1912年(明治45年)『美術新報』に「ウイリアム・モリスの話」を発表。
その後来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めてゆく。リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の六代目尾形乾山に学んでいた。富本も影響を受けて興味を持つようになり、1913年(大正2年)に故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始める。1914年(大正3年)『青鞜』の同人で「新しい女」として評判だった尾竹紅吉(尾竹一枝)と結婚する。
1915年(大正4年)、故郷奈良に本格的な窯を築きいっそう創作に励む。独学で多くの技術を身に付けたという。陶磁器の研究のため信楽、瀬戸など各地の窯場や朝鮮半島にも足を運ぶ。また、奈良の陶芸家今西洋が波佐見・中尾山で収集した「くらわんか茶碗」の破片などを今西洋の仕事場で「肥前中尾山 茶碗集」としてスケッチし、雑誌『工藝』に寄稿する。[2]李朝に影響された物や民芸調の作品を制作する中で、白磁の焼成に成功する。この奈良にいたのは主に大正年間だったため、この時期を富本の「大和時代」ともいう。
1926年(大正15年)、奈良から世田谷に住まいを移し窯を築く。(以後を「東京時代」ともいう)。主に白磁、染付の作品を制作。この時点ではまだ世に知られる存在ではなかったが、1927年(昭和2年)の特別展で評判を得た。昭和10年代は本格的に色絵磁器の制作に励んでいる。このころは柳宗悦の民藝運動にも共感を寄せているが、のちに訣別する。
長く在野だったが、1935年(昭和10年)帝国美術院(日本美術院、帝国芸術院の前身)の改革に伴い会員に選ばれる[3]。1944年(昭和19年)には東京美術学校教授になっている。第二次世界大戦中は疎開のため生徒とともに一時高山に移っている。終戦後の1946年(昭和21年)には美術学校および芸術院会員を辞し、家族とも別れ京都へ移る。以後を「京都時代」ともいう)。色絵に加えて金銀を同時に焼き付けるという技法・金銀彩を完成させ、羊歯文様などによる独自の作陶様式を確立した。
1949年(昭和28年)京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)客員教授、1950年(昭和29年)京都市立美術大学教授。1955年(昭和30年)2月15日には重要無形文化財「色絵磁器」保持者として人間国宝に認定、前年の文化財保護法改正によって新設された重要無形文化財の保持者認定制度発足後に最初に認定された人間国宝の一人となった。晩年の1961年(昭和36年)には文化勲章を受章している。その2年後満77歳で死去した。
奈良県生駒郡安堵町の自宅跡はかつて富本憲吉記念館となっていたが2012年に閉館し、2017年1月にレストランとホテルから成る「うぶすなの郷 Tomimoto」に改装された[4]。奈良市のホテル経営「ワールド・ヘリテイジ」(川井徳子社長)が訪日富裕層らの集客を視野に「1日2組限定、2食付き宿泊費1人5万円から」の高級旅館として運営[5]。
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