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密雲円悟(みつうん えんご、嘉靖45年(1566年)11月16日 - 崇禎15年(1642年)7月7日)は、中国の明末の臨済宗天童派の禅僧。俗姓は蒋。法諱は円悟。号は密雲。常州府宜興県の出身。費隠通容の師であり隠元隆琦の師翁にあたる。
父は蒋曦、母は潘氏。8歳で念仏を唱えたという。酒色に溺れ16歳で妻帯。29歳で出家を決意し妻を捨て、万暦23年(1595年)正月に顕親寺の幻有正伝に就いて出家した。その後、幻有に随って竜池山禹門禅院に住した。万暦30年(1602年)、幻有が燕京に移るもそのまま留まり監院を託された。万暦31年(1603年)、38歳にして銅官山(常州府宜興県)にて大悟する。40歳のとき幻有にまみえるため燕京の普照寺に赴き2年間過ごす。その後、径山・天台山・竜池山など各地を巡り、周海門居士・陶望齢・王舜鼎らと問答を繰り返すうち海東に法道が広まった。
万暦36年(1608年)、紹興の護生庵に移り、万暦38年(1610年)、幻有が竜池山に戻ると翌年訪ね、46歳のとき幻有より付法される。万暦42年(1614年)、幻有が示寂。これより3年間その柩に随従し、万暦44年(1616年)12月、遺骨を墓に納めた。翌年、衆に請われて竜池山禹門禅院にて開堂した。天啓元年(1621年)12月、匡廬・衡嶽に行き、天啓2年(1622年)12月に天台山通玄寺(台州府天台県)に住した。天啓4年(1624年)5月、金粟山廣慧寺(嘉興府海塩県)に普山。殿堂などの整備を進め大禅林とした。
崇禎3年(1630年)3月に黄檗山の住持となるが、8月には金粟山廣慧寺に帰り、崇禎4年(1631年)2月に阿育王寺(寧波府鄞県)に移り、4月天童山景徳寺(寧波府鄞県)の住持となった。ここでも荒廃した寺院を復興し僧が雲集した。
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