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清の雍正帝の側室・乾隆帝の生母 ウィキペディアから
孝聖憲皇后(こうせいけんこうごう、満洲語: ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
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ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ、転写 (言語学):hiyoošungga enduringge temgetulehe hūwangheo)は、清の雍正帝の側室で、乾隆帝の生母・皇太后。満洲鑲黄旗の出身。姓はニオフル(鈕祜禄)氏(Niohuru hala)。父は四品典儀官の凌柱(リンジュ)。
康熙44年(1705年)、13歳の時にドロ・ベイレ(多羅貝勒)のドゥイチ・アゲ(皇四子)胤禛(後の雍正帝)の邸宅に輿入れし、ゲゲ(格格)となった。名門氏族の出身ながらも、父の身分は高くなかったので、嫡福晋のウラナラ氏はおろか、側福晋である年氏や李氏よりも位としては下であった。雍親王(胤禛)が病を患った際、ニオフル氏はかいがいしく看病し、それがきっかけで寵愛を受けたらしい。康熙50年(1711年)には四男の弘暦(後の乾隆帝)を雍親王府で出産した。
弘暦が10歳の時、雍親王が弘暦を連れて牡丹を観に円明園に赴き、康熙帝に謁見すると、弘暦は康熙帝に気に入られ、皇帝自ら皇宮で弘暦を養育した。これにより、ニオフル氏は雍親王の寵愛をさらに受けた。
雍親王が即位(雍正帝)すると、雍正元年(1723年)に熹妃に封じられて景仁宮に入り、雍正8年(1730年)にはさらに熹貴妃に封じられた。雍正9年(1731年)に孝敬憲皇后が逝去すると、宮中のことを取り仕切った。
乾隆42年(1777年)、慈寧宮で崩御した。享年86。死後、孝聖慈宣康恵敦和誠徽仁穆敬天光聖憲皇后の諡号を贈られ、雍正帝の泰陵の東北、泰東陵に葬られた。
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