女大学
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この項目では、江戸時代の教訓書について説明しています。女性のための高等教育機関については「女子大学」をご覧ください。 |
『女大学』(おんなだいがく)は、江戸時代中期以降広く普及した女子教訓書。ここでいう「大学」とは、教育機関の大学ではなく、四書五経のひとつである『大学』のことを言う。
貝原益軒が著した『和俗童子訓』巻5の「女子ニ教ユル法」を、享保(1716 - 36年)の教化政策に便乗した当時の本屋が通俗簡略化して出版したものと見られている。現存最古の版は1729年(享保14年)で、その後、挿絵や付録が加えられた多くの異版が出た。
益軒の原文が結婚前の女子教育を17か条に分けて説いたのに対し、本書は字数を3分の1に減らし19か条に分け、まず女子教育の理念、ついで結婚後の実際生活の心得を説く。和歌等の文芸に通じていた妻(東軒)の筆による内助が、成立を速めた[1]。一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調される。益軒には敬天思想に基づく人間平等観があり、それが原文の基調となっていたが、『女大学』ではすべて捨象されている[2]。
明治に至り、『女大学』を批判し、近代社会生活における女性のあり方を説くものが、福沢諭吉の『新女大学』(1898年)をはじめとして数種出ている[2]。例として、渋沢栄一は大正期に出版した『論語と算盤』において、明治以前、(『女大学』によって)精神的な教育は施されていたが、知恵や学問、理論といった知識を薦めたり、教えようとしなかったと指摘し、「明治期になり、女性の教育も進歩したが、こうした新しい教育を受けた勢力はわずかでしかなく、社会における女性の実体は『女大学』から出ていないといっても過言ではないといえる」と述べ、まだ女性教育は過渡期の段階であるとして、女性を道具扱いしてはいけない、女性も重んぜられるべきであり、これからは女性教育を活発化させ、人口の半分たる女性も活用すべきと論じる[3]。