大河内信威
日本の美術史家、評論家、実業家 ウィキペディアから
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大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。
理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。 高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された[3]。 東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
1930年(昭和5年)5月20日、共産党のシンパとして特別高等警察に逮捕される[4]。懲役6年の求刑を受けた後に転向宣言、1934年(昭和9年)に懲役3年の判決を受けて保釈されるも[5]、華族社会に大きな衝撃を与え、大河内家から正式に相続廃除される[6]。父親の正敏は貴族院議員など公職から退いた[7]。
後に河原崎長十郎と結婚する河原崎しづ江と結婚していた時期がある[8]。しづ江との間に一児(信具)を儲けるも、信威が豊多摩刑務所に収監中に離婚している。
釈放後、戦前は大多喜天然瓦斯(現:関東天然瓦斯開発)を経て、理研グループ各社の役員を務め、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった[2]。この間、陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、執筆のほか、自ら作陶もした[2]。1990年(平成2年)に心不全により没したが、新聞の訃報欄には日本陶磁協会理事長の肩書が用いられていた[9]。
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