国王問題
ベルギーの政治危機 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
国王問題(フランス語: question royale, オランダ語: Koningskwestie)は、1945年から1951年にかけて続き、1950年3月から8月の間、その頂点に達したベルギーの重大な政治危機(英語版)。この問題は、第二次世界大戦下、国王レオポルド3世がとった行為が、ベルギー憲法の規定に違反していたという疑惑の中、国王が帰国して、彼の憲政上の役割を再開できるか否かが争点となった。1951年、それはレオポルドが退位して、息子のボードゥアンに王位を譲る事によって最終的に決着した。
ベルギーの歴史 | |||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||||||||||
先史
| |||||||||||||||||
中世盛期
| |||||||||||||||||
近世
| |||||||||||||||||
ベルギー ポータル |
この危機は、1940年のドイツによる侵攻の時、レオポルドと彼の政府を率いるユベール・ピエルロ(英語版)の判断が分かれた事が原因で生じた。権威主義への共感を疑われていたレオポルドは、戦争勃発後、ベルギー陸軍を指揮していた。彼は、憲政上、国家元首の市民的な役割より最高指揮官の任務を優先すべきとの考えから、彼の軍を離れ、フランスに亡命したベルギー政府に加わる事を拒否した。レオポルドが政府の方針に違背した事によって、憲政上の危機となり、1940年5月28日のドイツ軍への降伏交渉を行った事で、レオポルドは広範な批判を浴びた。その後のドイツの占領下(英語版)、レオポルドは、自分の宮殿において軟禁状態に置かれ、ベルギーの一般市民と禁欲的に苦難を分かち合ったとして賞賛された。1944年、連合軍がベルギーを解放する直前、彼はナチスによってドイツに強制的に連行された。
ベルギーは解放されたものの、国王が虜囚の身であったため、国王の弟であるフランドル伯シャルル王子が摂政に立てられた。国王は憲法にもとづいて正式に「統治不能」である事が宣言された。国王が自身の職務に戻れるか否かをめぐって、国内が政治的に分断され、左派が政治的に優勢となった事で、レオポルドはスイスに立ち去った。1950年、新たに発足した中道右派政権によって、レオポルドの帰国の是非をめぐる国民投票が行われた。結果はレオポルド支持者の勝利となったが、国王帰国の賛成票が多くを占めたフランドルと反対票が多くを占めたブリュッセルとワロン地域との間で深い分断が生じていた。1950年7月にレオポルドが帰国すると、ワロン地域は大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキで応じた。この混乱は、7月30日に警察によって4人の労働者が殺害された事で最高潮に達した。急激に悪化する状況から、1950年8月1日、レオポルドは彼の退位の意思を明らかにした。過渡期の後、1951年7月に彼は正式に退位し、ボードゥアンに王位を譲った。