吉良持長ウィキペディア フリーな encyclopedia 吉良 持長(きら もちなが)は、室町時代前期から中期にかけての武士。後期東条吉良(下吉良)氏3代当主。三河国東条城主。 概要 凡例吉良持長, 時代 ... 凡例吉良持長時代 室町時代前期 - 中期生誕 不明死没 不明戒名 長栄寺殿氏族 後期東条吉良(下吉良)氏父母 父:吉良朝氏子 持助、頼高テンプレートを表示閉じる 吉良朝氏の子として誕生。元服時に室町幕府4代将軍・足利義持より偏諱を受けて持長と名乗る。 永享10年(1438年)の永享の乱の際、次男・頼高は鎌倉公方・足利持氏に味方して戦功があったが、父である持長も持氏の反幕府[1]の計画に加わっていたらしい。このため、永享の乱や結城合戦で持氏一族や持氏派の武将が滅ぶと、ことが露見しそうになり、嘉吉元年(1441年)6月23日[2]、足利義教の懲罰を怖れて逐電した[3]。
吉良 持長(きら もちなが)は、室町時代前期から中期にかけての武士。後期東条吉良(下吉良)氏3代当主。三河国東条城主。 概要 凡例吉良持長, 時代 ... 凡例吉良持長時代 室町時代前期 - 中期生誕 不明死没 不明戒名 長栄寺殿氏族 後期東条吉良(下吉良)氏父母 父:吉良朝氏子 持助、頼高テンプレートを表示閉じる 吉良朝氏の子として誕生。元服時に室町幕府4代将軍・足利義持より偏諱を受けて持長と名乗る。 永享10年(1438年)の永享の乱の際、次男・頼高は鎌倉公方・足利持氏に味方して戦功があったが、父である持長も持氏の反幕府[1]の計画に加わっていたらしい。このため、永享の乱や結城合戦で持氏一族や持氏派の武将が滅ぶと、ことが露見しそうになり、嘉吉元年(1441年)6月23日[2]、足利義教の懲罰を怖れて逐電した[3]。