Loading AI tools
戦国時代の武将。丹波国八木城主。備前守。 ウィキペディアから
内藤 貞勝(ないとう さだかつ)は、戦国時代の武将。丹波国八木城主。
天文22年(1553年)、「波多野与兵衛尉城」(数掛山城か)の戦いで内藤国貞が討死する(『言継卿記』)[1]。この後、国貞の居城・八木城には国貞の娘婿[2]である松永長頼が入り、その後見のもと、内藤家の跡目は貞勝に継承された(「湯浅文書」「片山家文書」)[3]。
従来、貞勝は長頼でなく国貞の子とされてきたが、この時に出された文書から長頼の子(国貞の孫)であることが分かる(「野間建明家文書」細川氏綱奉行人奉書)[4]。
永禄4年(1561年)6月には、「内藤備前守貞勝」の名で知行宛行の書状を発給している[5]。しかし翌永禄5年(1562年)には、内藤蓬雲軒宗勝と名乗っていた父・長頼が「備前守」を称するようになっており、貞勝は何らかの理由で当主でなくなっている[5]。以後の動静は不明。
永禄8年(1565年)8月には長頼が戦死するが、貞勝について国貞の子と解釈されてきたため、長頼の死後、長頼の子である内藤如安こそ城主とすべき派と国貞の子とされた貞勝の擁立を目指す一派とで内紛が起こり[6]、最終的に貞勝が八木城主に、如安が執政の立場になったとも言われた[7]。しかし前述の通り、貞勝は長頼が健在な時期に姿が見えなくなっており、長頼没後にその後継者として現れるのは内藤如安(内藤備前守貞弘)である[8]。
その後、天正元年(1573年)3月、織田信長と将軍・足利義昭との間で起こった槇島城の戦いでは、内藤如安が幕府方として2千の兵を率い入城している[9]。天正3年(1575年)6月には織田信長は、内藤や宇津討伐の兵を挙げ、並河易家、川勝継氏、小畠永明らが動員されたが、同年10月の黒井城の戦いで明智光秀が敗れてこの討伐は失敗した。しかし、内藤氏の居城・八木城はこの頃に落城したものと考えられる[10]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.