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伊達 宣宗(だて のぶむね、文禄3年(1594年) - 寛永9年(1632年))は、久保田藩重臣。国分氏の後身の秋田伊達氏(家格は引渡二番坐)2代目当主。伊達盛重(三河守)の養嗣子で、佐竹氏一門の佐竹義久(中務大輔)第3子[1]。通称は五郎[2]、左門。夫人は佐竹南家佐竹義種の妹[3]。子は伊達隆宗(自然丸)。
佐竹東家に生まれ、初代藩主佐竹義宣の母方叔父にあたる伊達盛重(三河守)の養嗣子となる。盛重は伊達政宗の父方叔父でもあるが、佐竹家に逃れて義宣の家臣となり、久保田藩移封後は横手城代になっていた。
久保田藩移封後の慶長13年(1608年)に藩主義宣に御目見し、義宣より偏諱を拝領して諱を宣宗とする。以後、代々の秋田伊達氏当主は藩主の偏諱(下の1字)を拝領するのが慣例となる。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に病身の養父に代わって従軍する。帰国後、盛重が死去すると家督を相続し、のちに横手城代となる。
元和8年2月(1622年)にキリシタン同様に藩より邪宗門とされた大眼宗[4]の指導者の厳中[5]の捕縛に失敗して改易となり、江戸に出奔する。これにより一時、陸奥国分氏の流れをくむ秋田伊達氏は断絶する。
寛永6年(1629年)に久保田に戻り、横手西方坂井田の水沢に妻とともに幽居され、寛永9年(1632年)に死去した。後に、息子の隆宗による家名再興が許され、秋田伊達氏は再興される。
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