久我通雄
鎌倉時代中期・後期の公卿。従一位太政大臣。久我通基の長男。勅撰集『玉葉和歌集』以下に8首入集。 ウィキペディアから
鎌倉時代中期・後期の公卿。従一位太政大臣。久我通基の長男。勅撰集『玉葉和歌集』以下に8首入集。 ウィキペディアから
久我 通雄(こが みちお)は、鎌倉時代中期・後期の公卿。中院太政大臣と号す。従一位太政大臣。父は内大臣久我通基、母は権大納言姉小路顕朝の娘。子には長男久我長通、二男久我通定がいる。
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『園太暦』、『花園天皇宸記』の記事に従って記述する。
岡野友彦が指摘しているように、晩年に生まれた通定(1311−?)を偏愛した通雄は長男の長通を義絶して家督を通定に譲ろうとしていたようである。例えば延慶4年(1311年)2月23日の不参公卿の名を洞院公賢が列記している中に長通の名があり、そこに父通雄に義絶されたという風聞がある、と書かれている[1]。また『花園天皇宸記』元亨3年(1323年)9月29日の条には、長通が大納言に還任したことについて不審に思うという記事がある[2]。同時代の証言が残されていることから、通雄が長通を義絶したのは事実のようである。しかし、勅定[3]により長通が大納言に還任し、元徳2年(1330年)2月26日に長通が内大臣に就任すると同時に通定が権中納言を辞し[4]、建武2年(1335年)8月2日には通定が出家して[4]、久我家家督は長通とその息男である通相に伝えられることになったのである。
岡野友彦の指摘、また『久我家文書』によれば通光は晩年の後室である西蓮に所領の大半を譲る措置をしたため、通光没後に一族に所領を巡る内紛が発生した。西蓮の出自が不明なことから、決して出自が高くなく後ろ盾のない後室と所生の子供たちの行く末を案じた可能性がある。通雄が通定に家督を譲ろうとしたことも同様の背景を推察できる。
また、源師房以来、村上源氏の中で参議を経ずに権中納言に直任されたのは鎌倉時代末までに通光と通雄だけである。通光は『新古今和歌集』入首歌人中最年少であったし、通雄は村上源氏では通光に続いて2人目の二位中将に任じられている。これらの点から、通光と通雄が特権意識を抱いて所領問題を処理しようとした可能性は捨てきれない。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.