中アッシリア時代
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中アッシリア時代(ちゅうアッシリアじだい)は古代アッシリアの時代区分の一つ。アッシリア史において初期アッシリア、古アッシリアに続く3番目の段階であり、前1363年ごろにアッシュル・ウバリト1世が即位しアッシリアが領域的な王国として勃興してから[1]、前912年にアッシュル・ダン2世が死亡するまでの時代を指す[注釈 1]。中アッシリア時代にアッシリアは初めて有力な1つの帝国となった。アッシリアは絶え間なく拡大と縮小を繰り返したが、この時代を通じて北メソポタミアの支配的な勢力であり続けた。アッシリア王とアッシリアの国家神アッシュルの台頭を含め、アッシリア史においては中アッシリア時代は重要な社会的、政治的、宗教的発展の時代であった。
中アッシリア時代 マート・アッシュル(māt Aššur) | |||||||||||
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前1363年ごろ–前912年 | |||||||||||
前13世紀ごろ、中アッシリア時代のアッシリア帝国最盛期のおおよその領域。 | |||||||||||
首都 |
アッシュル (前1363年ごろ-前1233年ごろ) カール・トゥクルティ・ニヌルタ(英語版) (前1233年ごろ-前1207年ごろ) アッシュル (前1207年ごろ-前912年ごろ) | ||||||||||
共通語 | アッカド語、フルリ語(フリ語)、アムル語、アラム語、エラム語 | ||||||||||
宗教 | 古代メソポタミアの宗教(英語版) | ||||||||||
統治体制 | 君主制 | ||||||||||
重要な王 | |||||||||||
• 前1363年ごろ即位 | アッシュル・ウバリト1世 | ||||||||||
• 前1305年ごろ即位 | アダド・ニラリ1世 | ||||||||||
• 前1273年ごろ即位 | シャルマネセル1世 | ||||||||||
• 前1243年ごろ即位 | トゥクルティ・ニヌルタ1世 | ||||||||||
• 前1191年ごろ即位 | ニヌルタ・アピル・エクル | ||||||||||
• 前1132年即位 | アッシュル・レシュ・イシ1世 | ||||||||||
• 前1114年即位 | ティグラト・ピレセル1世 | ||||||||||
• 前934年即位 | アッシュル・ダン2世 | ||||||||||
時代 | 青銅器時代および鉄器時代 | ||||||||||
• 開始 | 前1363年ごろ | ||||||||||
• 最初の拡大期 | 前1305年ごろ-前1207年ごろ | ||||||||||
• 縮小期 | 前1206年ごろ-前1115年ごろ | ||||||||||
• 再拡大期 | 前1114年-前1056年 | ||||||||||
• 再縮小期 | 前1055年-前935年 | ||||||||||
• 終了 | 前912年 | ||||||||||
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現在 |
イラク シリア トルコ イラン |
中アッシリア時代の帝国の起源はアッシュル市にある。この都市は古アッシリア時代の大部分の期間都市国家であり、その後ミッタニ王国の支配下にあったが、周辺の領域と共にミッタニから独立した。アッシュル・ウバリト1世の下でアッシリアは拡大を開始し、古代オリエントにおける大国としての地位を主張し始めた。大国足らんとする願望は主としてアダド・ニラリ2世(在位:前1305年ごろ-前1274年ごろ)、シャルマネセル1世(在位:前1273年ごろ-前1244年ごろ)、トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:前1243年ごろ-前1207年ごろ)の努力によって結実した。彼らの下でアッシリアは一時的にメソポタミアにおける覇権的な地位を占めた。トゥクルティ・ニヌルタ1世の治世は中アッシリア時代のアッシリア帝国の最盛期であり、バビロニアを征服し新たな首都カール・トゥクルティ・ニヌルタ(英語版)を建設した(ただしこの都市は彼の死と共に放棄された)。アッシリアは前1200年のカタストロフと呼ばれる後期青銅器時代の大規模な破壊の嵐による直接的な影響をほとんど受けなかったが、ほぼ同時期にアッシリア帝国は衰退の時代に入った。前1207年ごろのトゥクルティ・ニヌルタ1世の暗殺によって王朝内の衝突が生じアッシリアの国力は著しく低下した。
この衰退の時代の間でも中アッシリア時代の王たちは地政学的に積極的な姿勢を取り続けた。アッシュル・ダン1世(在位:前1178年ごろ-前1133年ごろ)とアッシュル・レシュ・イシ1世(在位:前1132年ごろ-前1115年ごろ)はともにバビロニアへの遠征を行った。アッシュル・レシュ・イシ1世の息子・後継者のティグラト・ピレセル1世(在位:前1114年-前1076年)の下、広範囲への遠征と征服によってアッシリア帝国は勢力を取り戻した。ティグラト・ピレセル1世の軍隊はアッシリア本国からはるか地中海まで進軍した。再征服地と新たな征服地はしばらくの間は維持できていたが、アッシリア帝国はティグラト・ピレセル1世の息子アッシュル・ベル・カラ(在位:前1073年ごろ-前1056年ごろ)の死後には再び(そしてかつてよりもより深刻な)衰退の時代に入った。このころにはアッシリア本国以外の大部分の領土が失われたと見られる。この縮小の一因はアラム人諸部族の侵略であった。アッシリアの衰退はアッシュル・ダン2世(在位:前934年-前912年)の下で再び回復へと向かった。彼はアッシリア本国の周辺地域に広範な遠征を行った。アッシュル・ダン2世とそれに続く後継者たちの成功によって帝国の旧領に対するアッシリアの支配が回復し、さらにやがて旧領を遥かに超えてアッシリアは勢力を拡大していった。このアッシリアの再拡大の開始は現代の学者によって中アッシリアから新アッシリア帝国への転換点として扱われている。
神学的にはアッシュル神の役割の重要な変化が中アッシリア時代に見られた。初期アッシリア時代よりも何世紀も前に都市アッシュルの擬人化・神格化によって誕生した神アッシュルは、中アッシリア時代に古のシュメルのパンテオンの最上位を占めたエンリル神と同格となり、アッシリアの拡張主義と戦争の結果としてその主たる性質を農耕の神から軍隊の神へと変化させた。都市国家から帝国へというアッシリアの変化はまた行政的・政治的に重要な結果をもたらした。古アッシリア時代のアッシリアの君主たちはiššiak(副王 / 総督)という称号の下、アッシュル市の有力者で構成される民会と共同で統治していたが、中アッシリア時代の王たちはšar(王)という称号を用いる独裁的な支配者であり、他の帝国の君主たちと同等の地位を追求した。この帝国への転換は洗練された道路網や領土の様々な行政区分、網の目のように張り巡らされた王の行政官と役人のネットワークなど、統治に必要な様々なシステムの発達ももたらした。