一柳頼親
江戸時代後期の大名 ウィキペディアから
江戸時代後期の大名 ウィキペディアから
寛政3年(1791年)1月11日[2][3]、第6代藩主・一柳頼欽の長男として江戸で生まれる。母は同族の播磨小野藩主・一柳末栄の娘[1]。寛政8年(1796年)、父の死去により、6歳で家督を継ぐ[1]。文化3年(1806年)12月に叙任。
頼親治世の小松藩では、文教政策の振興が図られた。享和2年(1802年)、奉行人・竹鼻正脩の提言によって藩の学問所「培達校」が設置された。翌享和3年(1803年)には朱子学者・近藤篤山が小松に招聘され、培達校は「養正館」と改名している[4]。養正館は藩士子弟のみならず農家や商家の者であっても入校を許すという、当時としては画期的な方針の藩校であった。また、文化5年(1808年)には、伊能忠敬の測量に協力している。
夫人は日向高鍋藩主秋月種徳の娘、照子(寛政7年(1795年)5月 - 弘化2年(1845年)1月27日)[3]。
従弟の一柳頼紹を養子に迎えた。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.