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初代サマセット伯ロバート・カー(英語: Robert Carr, 1st Earl of Somerset, KG, PC, 1587年頃 - 1645年7月17日)は、イングランド・スコットランドの廷臣、政治家、貴族。
1615年頃までイングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)の寵臣だった。1611年にロチェスター子爵、1613年にサマセット伯爵に叙された。
1587年頃にサー・トマス・カーとその妻ジャネット(旧姓スコット)の間の息子としてスコットランドに生まれた[1][2]。
早くからスコットランド王ジェームズ6世の宮廷に仕え、1603年に彼がイングランド王ジェームズ1世に即位するとカーもジェームズ1世に従ってロンドンへ移った[2]。君寵を得て出世し[2]、1607年にはナイトに叙され[1]、1611年にはロチェスター城を与えられるとともにイングランド貴族爵位ロチェスター子爵に叙された[1]。1612年には枢密顧問官に列するとともに国王秘書長官に就任[1]。1613年にはイングランド貴族爵位サマセット伯に叙される[1]。1614年から1615年にかけては宮内長官、五港長官、王璽尚書を務めた[1]。
カーはジェームズ1世の宮廷内ではスコットランド系廷臣を代表する立場であり[3]、初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルの死後、宮廷内の権力を握った初代ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワードや甥の初代サフォーク伯トマス・ハワードらカトリックで親スペイン派のハワード家を支持していた。反面、プロテスタントで反スペイン派のカンタベリー大主教ジョージ・アボット、ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート、サウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーらと対立していった[4][5]。
詩人トマス・オーヴァーベリーを宮廷内で取り立てたのはカーであった。しかし1613年にカーがサフォーク伯の娘で第3代エセックス伯ロバート・デヴァルー夫人フランセス・ハワードと恋仲になった際、オーヴァーベリーに結婚を反対されたことでカーとフランセスはオーヴァーベリーを恨むようになった。同年4月にオーヴァーベリーが外交官勤務を断って不敬としてロンドン塔投獄となった際、フランセスはオーヴァーベリーに少しずつ毒を盛って9月に彼を殺害した(毒殺の主犯はフランセスであり、カーの方は必ずしも積極的には関与しなかったという)。そして同年末に至ってフランセスとカーは結婚した[6][7][8]。
しかし1614年から1615年頃にかけて君寵をジョージ・ヴィリアーズ(後の初代バッキンガム公)に奪われるようになり、結果として翌1616年にはオーヴァーベリー毒殺容疑で妻とともに逮捕されて失脚した[9]。事件の取り調べには王座裁判所首席裁判官エドワード・コークと法務長官フランシス・ベーコンらが当たり、ベーコンの告発文書で事件の内容が暴かれ、有罪宣告を受けて5年間監禁された[7][8]。1622年に釈放されるもその後は引退生活を送った[2]。
1645年7月17日に死去。男子はなく彼の死とともに保有爵位は廃絶した[1]。
1613年に初代サフォーク伯トマス・ハワードの娘フランセス・ハワード(1590年 - 1632年)と結婚。彼女との間に一人娘のアン・カー(1615年 - 1684年)を儲けた。彼女は第5代ベッドフォード伯爵ウィリアム・ラッセル(後の初代ベッドフォード公爵)と結婚した[1]。
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