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ロナルド・ジャン・マルタン・アジェノール(Ronald Jean-Martin Agenor, 1964年11月13日 - )は、ハイチの元男子プロテニス選手。モロッコ・ラバト生まれ。ハイチ最大のテニス選手として、1989年全仏オープン男子シングルスでベスト8に入り、ATPツアーでシングルス3勝を挙げるなど、数々の業績を残した選手である。シングルス自己最高ランキングは22位。ギタリストとしても有名で、これまでに2枚のオリジナル・アルバムを発表している。
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基本情報 | ||||
フルネーム | Ronald Jean-Martin Agenor | |||
国籍 | ハイチ | |||
出身地 | モロッコ・ラバト | |||
居住地 | アメリカ合衆国・カリフォルニア州ビバリーヒルズ | |||
生年月日 | 1964年11月13日(59歳) | |||
身長 | 180cm | |||
体重 | 81kg | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1983年 | |||
引退年 | 2002年 | |||
ツアー通算 | 3勝 | |||
シングルス | 3勝 | |||
ダブルス | 0勝 | |||
生涯通算成績 | 247勝315敗 | |||
シングルス | 221勝257敗 | |||
ダブルス | 26勝58敗 | |||
生涯獲得賞金 | 2,014,601 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 2回戦(1990) | |||
全仏 | ベスト8(1989) | |||
全英 | 2回戦(1989・93) | |||
全米 | 4回戦(1988) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全仏 | 1回戦(1986・88) | |||
全米 | 1回戦(1986) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 22位 | |||
ダブルス | 111位 | |||
彼の名前に関しては日本語のテニス文献資料が少なく、「ロナルド・アゲナー」でも www.ne.jp と protennis66.web.fc2.com しかヒット元がない。“Agenor”という名前の著名人は、ブラジルのサンバ歌手カルトーラの本名がよく知られていることから、本記事名は「ロナルド・アジェノール」で記述する。
父親のフレデリック・アジェノールはハイチの農業大臣で、元国連外交官を務めた政治家であった。ロナルドが6人兄弟の末っ子として生まれる前に、家族はハイチの首都ポルトープランスからモロッコの首都ラバトに引っ越し、ロナルドはモロッコで生まれた。故国ハイチとは違う地に誕生したのは、末っ子のロナルドだけだったという。彼は10歳までモロッコで生活した後、4年間ザイール(現コンゴ民主共和国)に住み、14歳でフランスのボルドーに定住した。ボルドーに落ち着いた14歳の時、彼は初めてテニスと出会い、兄の手ほどきで本格的な訓練を受けた。1983年に19歳でプロ入りすると、アジェノールは直ちに「ハイチのセンセーション」としてテニス界の注目を集めるようになった。
1986年全仏オープンで4大大会にデビューした。1986年ウィンブルドン選手権の2週間後、彼は在住地のボルドー・オープンダブルスでマンスール・バーラミと組んで決勝に進出する。ハイチ人選手による初のATPツアー決勝では、ホルディ・アレッセ/ダビド・デ・ミゲル組に5-7, 4-6で敗れて準優勝になった。1987年にはシングルスで3度の準優勝を記録する。7月上旬は2週連続でエミリオ・サンチェスとの決勝に敗れ、10月のスイス・インドア決勝ではヤニック・ノアに6-7, 4-6, 4-6で敗れた。この試合はATPツアー史上初の「黒人選手どうしの決勝戦」として注目を集めた(公式サイト内に“Black Tennis History”の紹介がある)。1988年、彼は全仏オープンと全米オープンで2度の4回戦に進出し、プロテニス選手の出場が認められたソウル五輪にも出場した。こうして「ハイチのセンセーション」は、各地で当地のテニス史上初の偉業を打ち立てていく。
1989年4月10日、アジェノールはアテネ・オープン決勝でケント・カールソンを6-3, 6-4で破り、この地でハイチ人選手初のプロテニスツアー優勝を達成した。5月8日付で、彼の世界ランキングは自己最高の「22位」に上がる。6月の全仏オープン男子シングルスで、彼はハイチ人初のベスト8進出を果たし、準々決勝で当時17歳3ヶ月のマイケル・チャンに4-6, 6-2, 4-6, 6-7で敗れた。続くウィンブルドン選手権では、2回戦でチャンに連敗する。1990年、アジェノールはプッリャ国際選手権とヨーロピアン・インドア選手権で年間2勝を挙げた。
ハイチは1988年から男子テニス国別対抗戦デビスカップに参加し始めたが、最初はジャマイカ代表に5戦全敗の成績で、1989年は出場できなかった。1990年にアジェノールが初めてデビスカップハイチ代表入りをしてから、ハイチはデビスカップに毎年参加できるようになり、現在に至るまでアメリカン・ゾーン・グループ3に所属している。
その後、アジェノールは長期間の低迷で世界ランキングを大幅に落とし、1997年夏には600位台まで落ちたこともあった。そこからのカムバックを目指し、1999年11月に33歳で再び世界トップ100に復帰を果たす。2000年全豪オープンでは、1995年以来5年ぶりの4大大会復帰も果たした。2001年全仏オープンでは「35歳の最年長出場者」として新聞の話題になるが予選2回戦敗退に終わる。彼は波乱の多いテニス人生を送ったが、38歳を迎える2002年まで現役を続行し、2008年には44歳で7年ぶりのデビスカップに出場した。
ロナルド・アジェノールは著名なロック・ギタリストとして、2枚のオリジナル・アルバム“Kids On The Road”(1990年)“Waves of Love”(2003年)を発表するなど、多方面の音楽活動にも携わっている。
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