モスクワの戦い
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モスクワの戦い(モスクワのたたかい、ロシア語: Битва за Москву, ローマ字表記:Bitva za Moskvu, 英語: Battle of Moscow)は、第二次世界大戦中の1941年10月2日から1942年1月7日にかけてモスクワ近郊で行われた戦闘である。この戦いは600kmの防衛区域で二段階に分かれて行われた。モスクワはソビエト連邦の首都であり、最大の都市であったため、バルバロッサ作戦で最も重要な軍事的、政治的な目標の一つであった。
モスクワの戦い | |
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1941年12月 モスクワから前線に行軍中の新規部隊 | |
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
年月日:1941年10月2日 - 1942年1月7日(3ヶ月と5日) | |
場所: ソビエト連邦 ロシアSFSRモスクワ州モスクワ近郊 | |
結果:
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交戦勢力 | |
ドイツ国 | ソビエト連邦 |
指導者・指揮官 | |
アドルフ・ヒトラー フェードア・フォン・ボック ハインツ・グデーリアン フランツ・ハルダー ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ ヴァルター・モーデル ギュンター・フォン・クルーゲ ゲオルク=ハンス・ラインハルト アドルフ・シュトラウス エーリヒ・ヘプナー |
ヨシフ・スターリン ゲオルギー・ジューコフ アレクサンドル・ヴァシレフスキー イワン・コーネフ セミョーン・チモシェンコ ボリス・シャポシニコフ コンスタンチン・ロコソフスキー レオニード・ゴヴォロフ セミョーン・ブジョーンヌイ パーヴェル・ベローフ(英語版) レフ・ドヴァートル(英語版) † ニコライ・ヴァトゥーチン イッサ・プリーエフ ミハイル・カトゥコフ ヴァシーリー・クズネツォフ(英語版) パーヴェル・ロトミストロフ |
戦力 | |
中央軍集団
1941年10月1日時点:
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西方面軍
予備方面軍
ブリャンスク方面軍
1941年10月1日時点:
1,250,000-1,400,000名 |
損害 | |
1941年10月1日-1942年1月10日
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モスクワ防衛時:[13] (1941年9月30日-1941年11月5日)
合計: 1,029,234(see § Casualties) |
この戦いはドイツ側で「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun, 英語:Operation Typhoon)と名付けられており、モスクワ北部と南部からの両翼包囲を必要とした。モスクワの北方では第3装甲軍と第4装甲軍がカリーニン方面軍と対峙し、同時にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断し、モスクワ州の南方ではトゥーラの南で西方面軍 (ソ連軍)が第2装甲軍と対峙している一方、第4軍は直接西からモスクワへ進軍していた。アンドリュー・ロバートによればヒトラーのソ連の首都への攻撃は総攻撃に他ならなかった。"第二次世界大戦の趨勢はこの大規模な攻撃の成果にかかっていたといって誇張している訳ではない[14]。"
最初、ソ連軍はモスクワ州で三つの防衛線を形成することで戦略的防御を行った。この防衛線には新たに徴兵した予備兵力とシベリア軍管区と極東軍管区から抽出した部隊が展開されていた。ドイツの攻撃が止まると同時に、ソ連は戦略的反攻と小規模な攻勢によってドイツ軍をオリョール、ヴャジマ、ヴィーツェプスクまで押し返し、ドイツの3軍を包囲しかけた。この戦いによってドイツ軍は大幅に後退し、ソ連に早期で勝利する可能性はなくなった。この戦いの後、ブラウヒッチュ元帥は陸軍総司令部(OKH)の司令官を解任され、ヒトラーは自身をドイツ陸軍の総司令官に任命した。