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ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ
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ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ (アラビア語: محمد بن عبد الوهاب, ラテン文字転写: Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 西暦1703年/ヒジュラ暦1115年 – 1792年6月22日)はスンナ派ムスリムの宗教家[1]、ウラマー。アラビア半島中央部のナジュド出身[1]。クルアーンと預言者のスンナだけに基づき、タウヒードを強調する厳格な復古主義的思想を説いた[1]。信仰の本来の教えに立ち返ることによってイスラームを「浄化する」ことを訴えた。ここで言うイスラーム本来の教えとは、預言者ムハンマドが直接伝道した人々から数えて3世代までの「サラフ」(先祖の意)により理解されていた教えを指す[2]。また、宗教的なこしらえ物(ビドア)、あるいは多神教(シルク)とみなしたものは、それがたとえ普通のムスリムの生活に根付いた習慣であっても拒絶すべきものとされた[3]。
概要 人物情報, 生誕 ...
![]() カリグラフィに描かれた彼の名前 | |
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1703年ごろ ナジュド・ウヤイナ |
死没 |
1792年6月22日 第一次サウード王国・ディルイーヤ |
学問 | |
特筆すべき概念 | ワッハーブ派 |
主要な作品 | كتاب التوحيد |
影響を受けた人物 |
イブン・ハンバル イブン・タイミーヤ |
影響を与えた人物 |
ムハンマド・イブン・サウード サウード家 |
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イブン・アブドゥルワッハーブはムハンマド・イブン・サウードと同盟を結び、その助けを得てディルイーヤ首長国(第一次サウード朝)を樹立した[4]。彼らは同盟して権力を独占した上で二人で分け合い、二人の一族による支配はこんにちのサウジアラビア王国(第三次サウード朝)まで続いている[5]。サウジアラビアにおける「アール・アッ=シャイフ(英語版)」と呼ばれる宗教的権威のある一族がイブン・アブドゥルワッハーブの子孫であり、同国の聖職者階級養成機関を支配して[6]ウラマーを統率している[7]。