マダガスカルの戦い
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マダガスカルの戦い(まだがすかるのたたかい、英語: Battle of Madagascar、フランス語: Bataille de Madagascar)は、1942年5月5日から同年11月6日にかけて勃発した戦いであり、第二次世界大戦の戦いの一つである。内容としては当時フランスの植民地であったマダガスカル島(フランス領マダガスカル)にイギリス軍が侵攻し、同地のフランス軍を撃破してこれを奪い取った戦いである。なお当時のフランスは以前ナチス・ドイツとの戦いで敗戦し降伏しており、親独政権であるヴィシー政権が成立していた(ヴィシーフランス)が、その一方で連合国の一員としてドイツとの戦争を継続する自由フランスも結成されていたためフランスは一つの国に二つの体制が存在する分断国家となっていた。そして当時のフランスは世界各地に植民地を保有していたが、それらの植民地でもヴィシーフランス側と自由フランス側に分かれて対立・交戦していた。そしてマダガスカルはヴィシーフランス側に味方したためイギリスなどと対立し、また枢軸国側の大日本帝国はヴィシーフランスを支援するため海軍部隊をマダガスカル方面に向かわせており、イギリス側としては日本軍が同島に上陸する前にこれを占領する事を目的として攻撃を計画した[1][2]。
マダガスカルの戦い | |
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マダガスカル島に上陸するイギリス軍 | |
戦争:第二次世界大戦[1] | |
年月日:1942年5月5日 - 同年11月6日[2] | |
場所:マダガスカル島(当時はフランス領マダガスカル)[1] | |
結果:イギリス側の勝利、ヴィシーフランス側の降伏[2]。イギリス軍がマダガスカル島を占領するも、その後同島の管轄は自由フランスに移る[1]。 | |
交戦勢力 | |
イギリス帝国 イギリス領インド帝国 北ローデシア 南ローデシア 南アフリカ連邦 オーストラリア オランダ ポーランド |
フランス国 大日本帝国 ドイツ国 |
指導者・指揮官 | |
ロバート・スタージェス(英語版) エドワード・サイフレット ヤン・スマッツ |
アルマンド・レオン・アネット(英語版) 秋枝三郎 岩瀬勝輔 石崎昇(英語版) |
戦力 | |
イギリス軍 兵員約10,000人-13,000人 空母2隻 戦艦1隻 巡洋艦2隻 駆逐艦9隻-11隻 コルベット6隻 掃海艇6隻 補助艦艇複数 支援艦艇複数 南アフリカ空軍 航空機数機[1][2] |
ヴィシーフランス軍 兵員8,000人 沿岸砲8台 武装商船2隻 潜水艦5隻 戦闘機数機 爆撃機数機 日本海軍 乗員95人 特殊潜航艇2隻[1][3] |
損害 | |
イギリス軍 105人-107人戦死 108人戦病死 280人-283人戦傷[1][2] |
フランス軍 600人以上死傷 145人戦死 336人戦傷 約1,000人捕虜 航空機約34機撃墜 潜水艦2隻撃沈 日本軍 4人戦死 特殊潜航艇1隻座礁[1][2][3] |
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そして前述したように1942年5月5日に攻撃が開始された。イギリス軍は約10,000人から13,000人の兵員を動員し、航空母艦のイラストリアスとインドミタブルや戦艦のラミリーズ、巡洋艦2隻、駆逐艦9隻から11隻、コルベット6隻、掃海艇6隻、更に複数の補助艦艇や支援艦艇を派遣。またイギリス帝国の一員としてイギリス領インド帝国の英印軍や北ローデシア、南ローデシア、南アフリカ連邦の部隊も参戦し、中でも南アフリカ空軍は大々的に参戦し複数の航空機を派遣した。その他にも海上部隊にはオーストラリア軍やオランダ軍、ポーランド軍の艦艇なども参戦した[1][2][4]。
それに対してヴィシーフランス側としてはマダガスカルには8,000人の駐留軍がおり、また沿岸には沿岸砲8台を備えていた他武装商船2隻、潜水艦5隻、複数の戦闘機や爆撃機を動員。その中には同盟国ナチス・ドイツの工作員も居た[1][2]。そして日本軍は海軍の特務潜航艇を2隻派遣した。なお日本軍は当初特務潜航艇を3隻動員する予定であったが、作戦前に1隻が故障したため2隻となった[3]。
上記の部隊の指揮系統地しては、イギリス側では上陸部隊はロバート・スタージェス司令官の指揮下に置かれ、海上部隊はエドワード・サイフレット司令官が指揮。また南アフリカ空軍の派遣に関しては、当時の首相であったヤン・スマッツが命令した。それに対するヴィシーフランス軍は当時マダガスカルの総督であったアルマンド・レオン・アネット司令官の指揮下となった[1][2]。また日本軍では海軍の秋枝三郎司令官と岩瀬勝輔司令官がそれぞれの2隻の潜水艦の艦長となった[5]。
戦いではイギリス軍はまずマダガスカル北部のディエゴスアレス(現在のアンツィラナナ)に上陸し、3日間でこれを占領した。この戦いでイギリス側では107人が戦死した他108人が病死し、また280人が負傷した。それに対しヴィシーフランス側は600人以上が死傷し約1,000が捕虜となった。また航空機は約34機撃墜され、潜水艦2隻が撃沈された。そして日本軍は特務潜航艇が座礁したが地上戦に移行し、イギリス軍との戦いで4人が戦死した。しかしその後も戦いは続き、6ヶ月後の1942年11月6日にヴィシーフランス軍が降伏。同党はイギリス軍が占領したが、後にその管轄は自由フランスに移された。しかし、ヴィシーフランス側とはいえフランスの領土を攻撃するのにイギリス側は自由フランスに通告なしで攻撃を行った事で反感を買う結果となった[1][2][3]。