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北マケドニアのサッカー選手、監督 ウィキペディアから
ボスコ・ジュロヴスキー(マケドニア語: Бошко Ѓуровски / Boško Ǵurovski ボシュコ・ジュロフスキ、セルビア語: Бошко Ђуровски / Boško Đurovski ボシュコ・ジュロヴスキ、1961年12月28日 - )は、元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。マケドニア社会主義共和国(旧ユーゴスラビア)のテトヴォ出身で現在はセルビア国籍[1]。弟のミルコ・ジュロヴスキーと甥のマリオ・ジュロヴスキーもサッカー指導者、元サッカー選手である。
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Boško Ǵurovski | |||||
キリル文字 | Бошко Ѓуровски | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
北マケドニア セルビア | |||||
生年月日 | 1961年12月28日(62歳) | |||||
出身地 | テトヴォ | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
テテクス | ||||||
1976-1978 | レッドスター・ベオグラード | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1989 | レッドスター・ベオグラード | 237 | (41) | |||
1989-1995 | セルヴェット | 163 | (9) | |||
通算 | 400 | (50) | ||||
代表歴 | ||||||
1979 | ユーゴスラビア U-20 | |||||
1982-1989 | ユーゴスラビア | 4 | (0) | |||
1994-1995 | 北マケドニア | 7 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
1999 | セルヴェット | |||||
2002 | ラドニチュキ・オブレノヴァツ | |||||
2002-2003 | ラド | |||||
2007 | レッドスター・ベオグラード | |||||
2013-2015 | 北マケドニア | |||||
2016 | 名古屋グランパス | |||||
2017 | レッドスター・ベオグラード (暫定) | |||||
2018 | 京都サンガF.C. | |||||
2021 | グラフィチャル | |||||
2022 | パラドゥ AC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1978年にレッドスター・ベオグラードで選手キャリアをスタート。在籍した11年間に中心選手の一人として4度のプルヴァ・リーガ、2度のカップ制覇に貢献した。
1989年夏に、スイスのセルヴェットFCに移籍し、1993-94シーズンのリーグ制覇に貢献した。
またユーゴスラビア代表としては1982年の初代表選出から1989年まで国際Aマッチ4試合に出場。マケドニア共和国の独立後はマケドニア共和国代表として国際Aマッチ7試合出場3得点を記録した。なお、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権でユーゴスラビア・ユース代表としてプレーしている。
引退後は引き続きセルヴェットFCの育成部門のコーチとなり、2001年にレッドスターにアシスタントコーチとして復帰した。
2002年にはFKラドニチュキ・オブレノヴァツ(FK Radnički Obrenovac)の監督に就任したがわずか4ヶ月で解任され、FKラド・ベオグラードのコーチとなった(ジュロヴスキはこの年の7月から10月までラドニチュキ・オブレノヴァツに所属していた)[2][3]。それにも関わらず、降格が避けられなくなり、シーズン2002-2003にあと3試合を残して辞職している[4]。
2007年3月には、ドゥシャン・バイェヴィッチの後任としてレッドスターの監督となった。ドゥシャンはシーズン2006-2007ではうまく働き、クラブをセルビア・カップ優勝へと導いた。しかし、続くシーズン2007-2008ではレッドスターの成績は思わしくなく、UEFAチャンピオンズリーグでは苦戦を強いられた。2回戦ではレバディア・タリンを相手にベオグラードでは1:0で相手を下したものの、タリンでは1:2で敗北し、ジュロヴスキはレッドスター会長のドラガン・ストイコビッチによって解雇され、ミロラド・コサノヴィッチ(Milorad Kosanović)が後任に就いた。その後もジュロヴスキはスカウトとしてクラブには留まった。
2008年より名古屋のヘッドコーチに就任。日本での登録名は「ボスコ・ジュロヴスキー」。マスコミ等では「ジュロブスキー」、またファーストネームの「ボシュコ」「ボスコ」とも表記される場合もあった。チーム戦術では主に守備を担当し、攻撃は監督のドラガン・ストイコビッチが行っていた。2010年シーズンはチーム史上初のリーグ戦優勝に貢献した。なおストイコビッチがベンチ入り停止となった試合(2012年8月現在、合計3試合)では監督代行を務めている。ストイコビッチの監督退任に伴い、2013年シーズン終了をもって名古屋を退団。
2014年1月1日からのマケドニア代表監督に就任した[5]が、就任から11戦で2勝しか挙げられず、2015年4月に成績不振のため解任された[6]。
2016年8月1日、名古屋にアシスタントコーチとして復帰する事が発表[7] 。同年8月23日、小倉隆史監督兼GMの解任(発表では「休養」)に伴い監督に就任することが発表された(当初は「監督代行」と発表されたが後に「監督」に訂正されている)[8]。一時は残留圏内に押し上げたが結局は16位でJ2降格となった。シーズン終了後に監督を退任した[9]。
2018年1月9日、京都サンガF.C.のフィジカルコーチ兼コーチに就任した[10]。2018年5月より京都の監督に就任した[11]。11月18日、成績不振の責任を取って京都の監督を退任した[12][13]。
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