ハル・ノート
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ハル・ノート(Hull note)、正式名称:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(がっしゅうこくおよびにほんこくかんきょうていのきそがいりゃく、Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)[1]は、対英米戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[2][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。
日本側の求める日本軍の中国駐兵を拒否して全面撤兵を要求するとともに、交渉過程では文書上は避けていた汪兆銘政権の否認を明確化、さらには仏領インドシナからの撤兵、日独伊三国同盟の破棄なども要求する非妥協的[3]、かつ日本のそれまでの対外行動を全否定する内容となっている[4]。
既に日本側は11月1日大本営政府連絡会議及び11月5日御前会議において、対英米蘭戦争を決意しており、12月1日午前零時までに外交交渉が成立しなければ戦争に踏み切ることを決定していた[5]。ハル・ノートを受けて、開戦論者はもちろん、交渉論者も一致団結して開戦を支持することになった[6]。そして、12月1日御前会議において、「十一月五日決定の『帝国国策遂行要領』に基く対米交渉は遂に成立するに至らず。帝国は米英蘭に対し開戦す」との議案を可決し、開戦に至った[7]。
なお、ハル・ノートの冒頭には「厳秘 一時的且拘束力ナシ」[8]という但し書きがあり、アメリカ政府の正式な提案ではなく、コーデル・ハル国務長官の「ノート」(覚書)という形をとっている[9][注釈 2]。
日本で「ハル・ノート」という通称が用いられるようになった時期は、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判前後だと考えられており[9]、アメリカでは1941年11月26日アメリカ提案[9]、あるいは "Ten Points" とも呼ばれている[13]。
- ※提示に至る経緯は日米交渉を参照。
- また、以下の説明文に記載のある「暫定協定案」「乙案」の内容については日米交渉#東條内閣と国策再検討以下の箇所を参照のこと。
アメリカ政府は対日回答として「暫定協定案」と包括的な「基礎的一般協定案」(ハル・ノートの原型)の二部構成で検討を進めており[14][15]、前者は事態打開の方策を列記した日本の乙案と軌を一にした内容であった(ただし資産凍結解除及び石油の供給を求める乙案に対し、暫定協定案の禁輸解除は限定的で双方の隔たりは大きかった)[15]。しかし、暫定協定案には中華民国が猛反対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官からの日本軍に関する誤報[注釈 3]も重なり、フランクリン・ルーズベルト大統領とハル国務長官は暫定協定案を放棄した(なお、暫定協定案放棄の決定的理由は今も明らかではない)[16][17]。その結果、「東アジアを日本の勢力圏とすることを否定して『門戸開放』を要求する原則論一本」のみが日本に提示されることになる[18]。
1941年11月26日(アメリカ現地時間16時45分から18時45分、日本時間11月27日6時45分から8時45分)に行われた、駐米日本大使の野村吉三郎・来栖三郎との会談で、ハルは日本側の最終打開案である乙案に対する拒否の回答を伝え、ハル・ノートを手交した[2]。