ニザーミー・アルーズィー
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ニザーミー・アルーズィー(ペルシア語: نظامی عروضی、生没年不詳)は、西暦1110年から1161年にかけて活躍した詩人・散文家[1]。『四つの講話』の著者として知られる[1]。その他にも著作があったらしいが完全な形で残っているものは『四つの講話』だけである[1]。ラカブはアブル・ハサン・ニザームッディーン、イスムとナサブはアフマド・ビン・ウマル・ビン・アリー、ニスバはニザーミー・アルーズィー・サマルカンディー(Abu’l-Ḥasan Neẓām-al-Dīn (or Najm-al-Dīn) Aḥmad b. ʿOmar b. ʿAlī Neẓāmī ʿArūżī Samarqandī)と伝わる[1]。アルーズィーは「韻律の扱いに巧みな人」程度の意味である。
ニザーミーの生涯について、『四つの講話』の中に書かれていること以外に知られていることは、何もない[2]。ニザーミーは、ニスバからサマルカンド出身と推測される[3]。サマルカンドに住んでいたころ、マー・ワラー・アンナフルのデフカーンの一人であったアービディーという人物(Abu’l-Rajaʾ Ahmad b. ʿAbd-Al-Ṣamad ʿĀbidī)から、ルーダキーがどのようにしてサーマーン朝のアミール、ナスル・ビン・アフマドと彼の町ブハラを誉め、アミールから返礼として褒美を得たかという話を聞いた[4]。アービディー自身はその話を自分の祖父から伝え聞いたという[4]。ニザーミーは、ゴール朝の王家であるシャンサブ家の宮廷に仕えた。その前はマー・ワラー・アンナフル地方からホラーサーン、バルフを遍歴していた[1][3]。
45年間ゴール朝に仕え、1156-57年頃『四つの講話』を執筆し、同朝の王子アブールハサン・フサームッディーン・アリーに捧げた。アルーズィー自身の言によると、ウマル・ハイヤームと出会ったのは1112年頃、バルフにおいてのことで、奴隷商人通りにあったある人物の家での宴会の時のことであったらしい[3][5]。